理性の光
掃除屋の潰れた頭部に脳らしい物が見えて、俺は舌打ちする。放っておけばコイツも人に近しいモノになっていた可能性があるのだ。
俺は岡部はじめを振り仰ぎ、軽く頷く。
「多分死んで……いや、脳っぽいのは潰れてるから、大丈夫だろうよ」
「何で言い直したの」
眉をひそめる岡部に、俺は肩をすくめた。
「細胞はまだ死んでないからだよ。脳が無いから動けないだけ。完全に死ぬには長くかかる」
だから絶対に、掃除屋にも血液にも近づくなよと釘を刺す。はいはいと適当に流す岡部は、危機感がまるでない。
「分かってんだろうな。お前が少しでも感染したら速攻で殺すからな」
「上手く感染するように?」
危機感どころか笑みさえ含んだ声に、俺は小さくため息をついた。
ややあって、岡部が躊躇いがちに口を開く。
「このウイルスは、さ。もう皆かかったほうがいいんじゃないか」
刹那に膨れ上がった感情に、ぐ、と喉が鳴った。俺の表情を認めた岡部の瞳が、怯むように揺れる。
深く、内圧を下げるように息を吐いて。
「いずれ人になるなら、ってんだろ」
知らず声は低くなった。立ち上がり、岡部と視線を合わせる。
「だがウイルスが広まるうちに変異して、そうならない可能性も出てくる。それに、このウイルスによって細胞を作り変えられた人間だけにかかる病が出てきたらどうすんだ」
ウイルスは本来人の手で使うものであり、安全で益のあるものになるはずだったのだ。真っ直ぐに岡部を見据えると、岡部はごめん、と一言呟いた。
「いい、けど二度と言うな。お前も、理性のあるまま人を食いたくないだろ」
暴動を受けて研究所へと向かう最中だった。車内で爆発的に広がった感染は、例外なく俺にもその腕を伸ばした。首筋に食いつかれて、しかしすぐにその感染者も他の感染者に取りつかれたから、死ぬまでには至らなかった。
だから持っていた十徳ナイフで、自身の頸動脈を掻っ切った。相当の力が居るはずだったが、火事場の馬鹿力というのか、血の吹き出る感覚とともに視界は暗転した。
――次に目が覚めた時、手のひらは血に塗れ、口元は少し裂けていた。手近な肉を喰らおうと、大きく口を開けたからだった。奥歯に挟まっている何かを舌で押し出して見てみれば、どうも爪か何かの欠片のようだった。
そこで嘔吐して、だが怒りの衝動に駆られた俺は、今にも噛みつきそうな感染者の口内へ手を突っ込んでいた。そこからはやはり、覚えていない。
何かを滅茶苦茶に傷付けたいような、大きすぎる感情が常に自分を支配していた。
曖昧な苛立ちは強烈に膨れ、それに振り回される内に、自身の意識が危うくなっていた。朦朧とする理性に必死に縋りついていた時――車窓からあの二人が見えたのだ。
迷いなど無かった。何故か目に入らなかったドアが、鮮明に視界へ飛び込んできた。そうだ、俺はこれを開く事ができる。自然と体が動いた。
それからは二人のおかげで感染者から逃れる事が出来て、漸く人間らしさを思い出せたのだった。
度々理性を失っても傍に置いてくれた二人には、感謝している。
そして記憶の混濁が治まった今、彼女らに地獄を叩きつけた桜木研究所への憎悪が渦巻いていた。
桜木研究所の裏切りに対する怒りもあるが、見知った人間の絶望を目の当たりにしてようやく、自身のやっていた事の非道さが、冷酷さが胸に迫ってきたのだ。
「俺は絶対に、このパンデミックを収めないといけない」
言い聞かせるように呟く。研究関連の記憶は思い出せたのだから充分だ。これ以上は思い出す必要はない。
「収めるって言ったって。具体的には?」
「桜木芽を見つけ出す」
端的に答えれば、岡部は不満げな顔をする。
「そういう事じゃない。彼女一人を見つけ出したところで、ワクチンや薬を生み出す施設も人手も足りない」
その最もな疑問に、しかし俺は嘲笑を抑えきれなかった。
「どこかに隠れてるさ。桜木の事だから、施設も人手も。……まぁ、日本国を、世界を救えるほどじゃないけどな」
後は全て、成されるままに。小指の爪の欠片程度でも自治組織が残っていれば万々歳だ。桜木研究所はいつか裁かれる。
しばらく岡部は開いた口が塞がらなかったようだが、やがて諦めたように笑った。
「確かに、こんなウイルスを作り上げた桜木芽が、対策を講じていないとは思えない。でもあるかどうかの確信は?」
俺はしばらく虚空を見つめ、次いで自身を指さした。
「お前、コレになりたいか?」
ぐ、と岡部が言葉に詰まる。俺はそんな岡部からすいっと視線を外した。
「ましてや研究段階で生まれたのは外に居るようなヤツらばかりだ。俺や雪さん、真美ちゃんみたいに意思疎通のできる実験体はそう生まれないだろうよ」
であれば余計に対抗策は講じるはずだ。
「……そうかもしれない」
岡部に再度目を向けると、彼は僅かに悲しみを滲ませてこちらを見ていた。
しかし一つ決意したように瞬くと、意外に芯の強い瞳が覗いた。
「僕は、知り合いを見つけるために着いていくけど、いいかな?」
俺は小さく鼻で笑う。俺の邪魔をしないのなら、あの二人を傷つけないのなら、
「勝手にしろ」
その後、証拠になりそうなものを探し回るが、流石と言うべきか、物の見事に隠滅が成されていた。実験に関する偽の文書まで作り上げている始末だ。俺が研究に明け暮れていた時にはこんなものは無かった。一つ舌打ちする。
あの掃除屋が最後の証拠だろう。掃除屋の目の前まで戻ってきた岡部が軽く唸る。
「随分と丁寧な手回しじゃないか。桜木芽は狙ってこのパンデミックを起こしたらしいね」
俺は深く溜息をついた。それから、ふと顔を上げる。
「お前、社内メールでここが安全だって言われたんだろ? 相手は誰だったんだ?」
「知らない。メールアドレスは桜木製薬の人間ではあったけど、その人は入社年月日からして中途の人物でね。そこまで内情を深く知っていたとは思えない」
送った人物が所員である事は確かだが、恐らく本人ではないのだろう。
だが送った情報は間違いではなかった訳だから、深く研究に関わった人物のはずだ。
「ウイルスに関しては、何も?」
「あぁ、頭を狙え、とは書かれていたけど。何というか、余裕のありそうな感じではなかったね」
乱文だった、と文面を思い返しているらしい岡部に、俺は頷く。どちらにせよメールを送った人物の正体は分からない。これ以上掘り下げて聞いても仕方ないだろう。
休憩室へと戻ると、雪さんは手当を終えて血の滲んだシャツを着ていた。それは真美ちゃんが着ていたものだろう、入れ替わりに彼女は肌着姿だ。
俺がシャツを脱ぐよりも早く、男物の上着が差し出される。
「新品の白衣でもありゃいいんだけどな」
おずおずと受け取った彼女につぶやく。休憩室近くにあった、所員が使用していたロッカーを漁ればあるかもしれない。
そこまでしなくてもいいと言う彼女を制し、ロッカーを片っ端から開ける。しかし流石に未使用の物は無さそうだ。そもそも空いているロッカーも二、三しかない。
後ろに立つ彼女を振り返る。
「悪い、新品は無いな」
彼女は一つ首を振ると、すっと手を伸ばして掛かっていた白衣をとる。
「汚れてなさそうなので、これで」
白衣に袖を通す彼女を横目に、俺は雪さんに目をやる。
「雪さん、今日はもう一晩泊まろう。雪さんの怪我が治りそうなら食い物を探しに行きたい」
「えぇ。大丈夫だと思うわぁ」
痛みなど感じさせない、綺麗な笑顔に俺は頷く。
岡部は論外だし、真美ちゃんはまだ体力が回復していないだろう。無理はさせたくない。
雪さんの怪我が治るまで、今度は毛布やら食料やら、休息に必要な物を探し回る。
「こんなもんか……」
集まった物資の少なさに嘆息する。毛布は休憩室にあったが、食料に関しては食べかけのグミやら、小腹を満たす程度のインスタントスープしか見つけられなかった。
災害用に備蓄していた食料類はすっからかんで、やはり誰かが持ち出したのだろう。
幸い休憩室の携帯用ガスコンロはまだ火が出る事が分かったので、温かい物が食べられるかもしれない。
「とりあえず水ねぇ」
猟銃を矯めつ眇めつ見ていた雪さんが呟く。
「弾はあと何発?」
「六よ。武器になりそうなものも探したいわ」
俺は小さく頷く。岡部にも探してやりたいところだ。
雪さんの怪我は治りきっていないが、本人が大丈夫というので、外に出る準備を進める。とはいえ最低限の食料と水をリュックに詰めるくらいだが。
「真美ちゃん、こいつぐるぐる巻きにしとく?」
ガムテープをビッと剥がすと、彼女は苦笑ぎみに首を横に振った。
「大丈夫、たぶん。私の方が怖いんじゃないですか」
それはそうか、と肩を竦める。それでも妙な気を起こすやつはいるものだ。
「じゃ、行ってくる」
「気をつけてください」
見送る彼女に手で応える。真美ちゃんの内情を知った後だから、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
「雪さん、その怪我で銃は撃てるの?」
白い空間を抜けつつ、彼女を横目で見やる。
「うーん、撃てると思うよ」
遠慮なく肩を回す彼女に、やはり痛覚が鈍っているのだろうと眉を顰めた。俺程ではないが、彼女も人間とはかけ離れた存在になってしまっている。
恐れることなく進む彼女の背中に、一つ首を振る。
時刻は昼を過ぎた頃だろうか。研究所を出ると、スカッとした青空だった。
「私達、普通にしてれば襲われないのかしら? 真美ちゃんは襲われる時とそうじゃない時があったと言っていたけれど」
「……どうだろうな」
真美ちゃんは、恐らくだが俺達の中で一番ヒトに近いのだ。ウイルスが持つ塩基配列が最も通常の、彼女の遺伝子に近かった。だから感染者には俺達よりもターゲットにされやすいはずだ。
「じっとしていれば同種の動物、みたいな感じかもな。敵とみなされたら攻撃される、餌とみなされたら食べられる」
「なら、こうやって喋っていると、餌とみなされるわよね」
雪さんがピンと声を張る。一体どこに潜んでいたのか、咆哮が静けさに響いた。
「おそらく」
雪さんが猟銃を構え、俺は片足を僅かに引いた。
バタバタバタ……と騒がしい足音が近づいてくる。理性があればもっと体を上手く使えるだろうに、膝も使わず筋力だけで走るからうるさいのだ。
方向に見当をつけたところで、雪さんが一歩前に出た。
「失敗したらヨロシク」
この人は、と呆れるより先に、感染者が転げるように目の前の影から飛び出てきた。
耳はちぎられ、鼻の軟骨はむき出しで、そこから獣の爪痕のように赤黒い線が伸びていた。下手な走りでも速いものだから、一気に肉薄してくる。それなのに隣にいる彼女はあろうことか銃を下げた。
訝しく思ったところで、彼女は銃をめいっぱい振りかぶり――その頭めがけて、銃床を叩きつける。
「は、」
ゴリン、と一瞬で感染者の頭が真下へ折れ曲がり、ボタボタと垂れるどす黒い血液を追うようにそのまま体がくずおれた。
俺はその無鉄砲さに目を剥く。
「装填してあるよなそれ!?」
倒れてもなお藻掻く感染者の頭に、遠慮なく踵落としを放った彼女は、きょとんとした顔で振り返った。
「えぇ」
俺は手で顔を覆った。
「危ないからやめて……」
「弾が無くなっても武器になるわね。真美ちゃんには重いかしら」
ぶん、と猟銃を振り回す彼女は、恐らく誤射の危険性など微塵も考えていない。
これ以上感染者が集まっても面倒だからと、早々にその場を離れつつ、俺はこんこんと彼女へ銃の危険性を説いた。それはもう、めんどくさがられる程に。




