最後の朝
十月十六日、木曜日。僕は朝早く目が覚めた。五時五十三分。明るくなった空高く、白っぽい半月が浮かんでいる。
とうとう、今夜は下弦の月。僕が月に行ける、最後の日だ。
一ヶ月前、突然月面に降り立った夜から、僕は少し大人になった。
月には、巨大なウサギがいた。僕の理想を形にした存在だって気づいたのは、やっと先週だった。
大人扱いされたくて、でもまだまだ子供で、理屈っぽくって変わり者の僕を、素直にさせてくれたウサギ。もっと一緒にいたいのに、今日でお別れだなんて。月を見上げながら、また少し泣きそうになる。
「本当に、終わっちゃうのかな……」
夢のような日々が、夢のまま続けばいいのに。でも、やっぱり終わるんだろう。ウサギは、嘘は言わない。一度だけ確認したときも、最初の日と同じことを言っていた。
「きみが初めてここに来たときと、同じ月がまた巡るまで」
巡るまで。……まで。
突然、寂しさでいっぱいだった頭の中が、光に照らされたように晴れた。
「八時までに来なさい、は八時過ぎたら遅刻だよな……」
下弦の月の日までOKだと勝手に思ってたけど、もしかして「同じ月」になったらアウトなんじゃないのか……!?
同じ月、はどうやって知るのか。僕は思い出した。月齢だ。
月の満ち欠けの度合いを示す月齢は、新月が0、上弦が7、満月が15、下弦が22。それだけ覚えていた。あわてて月の本をめくり、あの日と今日の月齢を確認する。
あの日、僕が初めて月に行った九月十六日、夜九時の月齢が21.9。月に行ったのは、たぶん十一時四十分頃だったと思う。
月齢は、一日で1増える。一時間あたりは? とっさに、なんとか暗算する。1割る24時間、だから0.5割る12、0.25割る6、つまり約0.04。
僕が月面に立った時の月齢は、少なく見積もって、22.0。
続いて今日、十月十六日。夜九時の月齢は……22.2。
「間に合わない!」
いつも通りに夜十時過ぎまで待っていたら、完全にタイムオーバーだ。月には行けず、ウサギとは昨夜別れたままになってしまう。危ないところだった。
さらに、22.0になる一時間前、つまり21.96までには月に行かないと、ウサギとの最後の時間をゆっくり過ごせない。合計すると月齢で0.24、つまり夜九時の六時間前がタイムリミット。
答えは、午後三時。
木曜日は六時間授業の後、委員会活動がある。どう考えても、三時までに帰ってくることはできない。
ただラッキーなことに、図書室の当番ではなかった。登校しても、授業に集中できる気がしない。
「休もう」
僕は心に決めた。
お父さんとお母さんが出勤してから、こっそり帰ってこようかとか、午前中だけで早退してくる方法も考えた。でも、それはダメな気がする。嘘をついて後ろめたい気持ちで、ウサギとの別れに向かいたくない。
「お父さん、お母さん、お願いがあります」
僕は台所とリビングの境に立ち、朝のあいさつもせず切りだした。卵をつかんでいたお母さんと、遅番でゆっくり起きてきたばかりのお父さんが、何事かという表情で僕を見つめている。
「今日、学校を休ませてください。お願いします」
体を九十度に折り、深々と頭を下げる。先に口を開いたのは、お母さんだった。
「具合悪いの?」
「いえ、悪くありません」
「何か嫌なことあった?」
「何もないです。いじめでもありません」
「じゃあ、どうして?」
「どうしても今日、やりたいことがあるからです」
きちんと訳を話せば、休んでもいい。それがうちのルールだ。大人だって会社を休む権利があるのだから、自分のやることをきちんとやっていて、人に迷惑をかけなければいいんだ、とお父さんがいつも言っている。
「それは、休まないといけないことか?」
今度はお父さんだ。お母さんより、声が厳しい。
「はい、学校に行ったら間に合わないことです」
「宿題ができてないとか、そういうズル休みではないね?」
「はい、違います」
「当番とか、人に迷惑をかけることはないか?」
「大丈夫です」
「そうか、分かった」
僕は、ようやく顔を上げた。お母さんは、もう朝ごはんの準備にうつっていた。
「休んでいいの?」
「いいよ、そこまで考えてるならあとは朋哉自身の責任だ」
寝癖頭にパジャマ姿のお父さんが、すごく立派な大人に見えた。エプロン姿で卵を焼いてるお母さんだって。
「ご飯食べたら、学校に電話するからね。風邪でいい?」
「うん、ありがとう!」
変わった両親と、変わった息子の僕。
ここが、僕がこれからも生きていくホーム。




