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「じゃあ、上の部屋でもっと休憩していてよ。悪いけど、私、家に帰る途中なの。邪魔しないで」


「家なんかないほうが、人は自由だよ」


カツンとまた靴音を鳴らして、一歩、私に近づく輝夜さん。

私はその気迫に押され、一歩、また一歩と下がってしまう。


でも──カウンターから離れることで、輝夜さんの注意を架紀ちゃんから逸らせるなら、それでいいと思った。

架紀ちゃんがその隙に気がついて、ここを出て行ってくれたらいいと、意識を輝夜さんから少し外した、その瞬間。


ひゅっと風を切るような音がして、いつの間にかハサミを持つ手首を掴まれていた。

ぽろりと、ハサミが手から落ちる。

あ、と思う暇もなかった。


タンッ、と小気味良い踏み込みの音がしたかと思うと、輝夜さんの体が私の懐に入り込んでいた。

そのまま視界が勝手にぐるんと回る。

背中を支えられながら、痛みもなくトンと床に押し倒された。

同時に、カシャンとハサミが落ちる音が重なった。

流れるような動作は合気道か何かだろうか。

それにしても、あまりにもあっけない。


押し倒されてしまった自分に唖然としていると、頭の上で両手首を、片手であっさりとまとめられてしまった。


そこで初めて、人生最大の危機的状況に陥ったのだと気がついた。


私に馬乗りになり、なおも微笑しながら見下ろしてくる輝夜さんに、声にならない悲鳴が漏れる。


「──!」


頭の上に固定された手首を振りほどこうとしても、びくともしない。下半身にのしかかる重さと密着感が不快でしかなかった。

華奢な体のどこに、こんな馬鹿力があるんだと悪態をつきたくなる。


「は、離してっ……!」


「落ち着いて。まだ何もしないから。分かったら頷いて」


優美な動作で、頬をそっと撫でられた。

冷たい指先に体が強張る。


「……っ」


恐怖心から、コクコクと何度も頷く。

今更ながら、背中に当たる冷たくて硬い床の感触が、ひどく不快だった。


「君にべったりと憑いていたあの狐がいないね。ひょっとして僕には見えないように隠れているのかと思ったけど……こうして宮ちゃんに直接触れられるところを見ると、本当にいなくなったみたいだね」


それは今、あなたのお兄さんを呼びに行ってるからです! なんて口が裂けても言えない。

口もききたくなかったが、時間稼ぎのために喋ることにした。


「……狐がいない私は用済みでしょ? だから離して」


「いや、そうでもないよ」


輝夜さんはゆらりと前屈みになって、私の顔をじっくりと覗き込んできた。

キスをされるような体勢に、私は唇をぎゅっと噛み締める。


「ふふっ。狐が居なくなっても、君に『神クラスの狐』が憑いていたという事実は変わらない。だったら、他の神をその細い体に……落とし込むことが出来るんじゃないかな……」


つつ、とまた片手で頬を撫でられ、顎を伝い、首筋を指が這う。

ぞくりとする感触に、ますます唇を噛み締めた。

いちいち、指先の動きが艶めかしくて厭らしい。

その動きに漆喰さんを思い出してしまった自分に、猛烈な自己嫌悪を覚える。


「君は神社の娘だし、神を降ろす巫女の才能があるんだろう」


そんな才能なんかいらないと顔を背けると、首筋で止まっていた指先は、するりと体を滑り、おへその下あたりでぴたりと止まった。

気持ち悪い。触らないでほしい。


「君の名前もよく出来ている『宮』とは、神を祀る建物のこと。そして……ここ」


ぐっと、おへその下を指先で強く押され「んっ」と声を漏らしてしまった。


「女性だけが持つ臓器『子宮』それは、子を宿す宮と書く」


「そ、それがどうしたんですかっ」


変な声が出てしまい、羞恥心から声を荒らげた。


「宮ちゃんに神を降ろして、宮ちゃんが僕の子供を産んだらさ」


輝夜さんは意味深に私の下腹部をさすった。


「神を降ろせる素材(子供)増やせる(作れる)んじゃないかなって」


「……な、にそれ」


恐ろしい発想だ。

人にも神様にも敬意がない。

それを本人はちょっとしたアイディア程度の口ぶりで語ってくるから、たまったもんじゃない。


「ね。君にはとても利用価値がある。狐なんかいなくても問題ないよ」


にっこりと笑う輝夜さん。

もう我慢できなかった。

このあと自分の身がどうなろうと、これだけは言いたい。例え殴られても構わないと、私は口を開いた。


「──最低。私、あなたなんか大嫌い」


「傷付くなぁ」


「馬鹿な弟より、私はあなたのお兄さん、神楽さんの方がずっといい。だから退いて。この変態!」


安い挑発だ。

向こうだってそんなの百も承知だろう。けれど、私を拘束する手の力がぐっと強まり、ギリリと両手首が締め付けられた。

オリーブグリーンの瞳からも、すっと温度が消える。


「痛い……!」


「なんだろうね。兄さんと比べられると、ムカつくよ」


下腹部に置かれていた手が、さらに下がり、内太ももに到達した。


「──!」


かつてない嫌悪感が最高潮に達したとき。チカッと、出口の方から強い光が差し込んだ。

もう朝日が昇ったのかと思うほどの光量だ。目を細めて見ると、その光の正体は、一台の車がこちらに向けて放ったハイビームだった。

しかもそれは、どんどんスピードを上げてこちらに近づいてくる!


「うそっ。車が突っ込んでくる!?」


「わ、凄い」


二人の声が重なった瞬間、車が入り口に衝突し、ホール内へと侵入してきた。

刹那、とんでもない轟音が耳をつんざいた。

私も何かを絶叫した。

だが、それよりも大きな音が私の声をかき消した。

分厚いガラスの割れる音。

車のエンジン音。

次々と連鎖する衝撃音。


入り口にあった観葉植物、マガジンラック、傘立て。あらゆるものが車とぶつかった衝撃で、凄まじい音を立てて四方八方に吹き飛ばされていく。その破壊音に身を硬くした。まるで、突然竜巻が発生したかのようだ。


現実的に酒気帯び運転の車が突っ込んできたのかと思ったとき、車から猛烈なブレーキ音が響いた。

ホールの床をタイヤが蹂躙する。鼓膜が震える。


激しい摩擦音が、静寂を暴力的に引き裂きながら、ようやく車の暴走は止まった。


ホール内には破壊された備品の破片が散らばり、埃が舞い踊っている。どこからともなく、カラン、パキンと物が落ちる音が聞こえる。


そして摩擦により、タイヤが焼けるゴムの異臭が鼻を突いたが、出口が破壊されたことで、館内には清涼な夜気がなだれ込んできた。


その清涼感のおかげで、混乱しそうな意識を正常に繋ぎ止めることができた。


「い、いったい何……!?」


声を発したときには、私を組み伏せていた輝夜さんの体は離れていた。

輝夜さんは私の横に立っていたが、この事態にも動じることなく、ハイビームを射抜くように、車をじっと見つめている。


「っ、眩しい」


私は心臓が激しく波打ち、気を失った架紀ちゃんのことが心配だった。カウンターの後ろにいるから無事だとは思うが、衝撃の連続で思うように体が動かない。

建物の中に車を突っ込ませるなんて、一体何者だろう。そう思っていると、車のライトがふっと消え、低く唸っていたエンジン音も途絶えた。


突入してきた外車は、なんだか見覚えがあるような……と思っていると、ガチャリとドアが開く音がした。


瞼の裏に焼き付いた光に目を細め、車から降りてくる人物を注視する。

バタン、と扉を閉めて車の横に佇む人物を見つめること三秒。

やっと目が慣れてきた。


それは、すらりとした長身にスーツを纏った男性。

宝塚女優のような嫋やかさと、圧倒的な美貌。見知ったその姿に、私は声を漏らした。


「あ、あ……!」


「──階さん。白狐から全て把握している。遅くなった。大丈夫か?」

オリーブグリーンの瞳が、心配そうに私を見つめた。

私は上半身を起こしながら、「漆喰さん!」と叫んだ。


心の中で目一杯、漆喰さんを連れてきてくれた白狐様に感謝を捧げる。

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