④
すうっと深呼吸する。
今の雑談からも有益な情報がたくさん得られた。やはり輝夜さんたち幹部がここに来ている。その人たちは、十中八九三階にいるだろう。
なんたって、昔から「馬鹿と煙はなんとやら」だ。
肝心の架紀ちゃんの所在だが──
「今の人たちは二階から来た。きっと二階が信者たちの部屋が中心で……馬鹿たちは三階にいる」
とはいえ、架紀ちゃんはどちらの階にいてもおかしくない。そう考えると頭がキリキリと痛んできた。
無闇に二階や三階をうろつくことはできない。何か確信できる情報はさっきの会話になかったかと必死で頭を回転させていると、ふと、脳裏にある言葉を思い出した。
「──三階、教義の間……! あの女性が言っていた言葉って、ひょっとして架紀ちゃんの居場所?」
さっきの信者たちも『三階、特別室』という言葉を口にしていた。
きっと、特別室というのが『教義の間』なのだろう。
瞬時に「罠かも」と思う自分と「罠でもいい、あの人を信じてみよう」という意思がぶつかり、後者が勝った。
「だって、迷っている時間はないから」
よし、と動き出す前にバッグの中身を確認する。そこにはキオスクで買い込んだライター、整髪料、ミントタブレット、板チョコ。あとは水とハサミ、痴漢対策用の防犯ブザーが押し込まれていた。
その中からチョコを取り出し、銀紙を乱暴に剥いてガリっとワイルドに食べる。
緊張した体と脳みそに甘さが染み渡る。おかげで少し気持ちが落ち着いてきた。
──このまま建物内の非常階段を使うと、誰かに見つかるかもしれない。
まずは外の非常階段を使い、三階を目指す。そしてそこでライターを使う。
「うん、それで行こう」
ごくりとチョコを飲み込み、そっと廊下の奥にある外の非常階段を目指した。
一階から三階まではすんなりと登れた。懸念していた扉の施錠はされていなかった。常時開放されているのか夜間だけ閉まるのかは分からないが、三階へ忍び込めたのなら今はなんだっていい。
三階は一階と違って煌々と明かりがついており、床には灰色の絨毯が敷かれていた。
造りはまるでオフィスビルのようだ。
もっと観察したかったが、見つかるのを恐れて息を殺し、素早く近くにあった女子トイレの個室に逃げ込んだ。
素っ気ない個室トイレで息を整える。
チープな芳香剤の匂いを肺に入れ、上を見上げると──
「ビンゴッ」
お目当ての天井には、銀色のスプリンクラーがあった。洋式トイレの蓋の上に登り、手を伸ばせばライターの火がなんとか届きそうだ。
バッグからライターを取り出し、手元でカチカチとスイッチを押すと、ちゃんと火が灯った。
「ドラマとかでこんな場面を見るけど、実際に火をつけようなんて凄く緊張する……!」
実際、手は少し震えていた。
狭い空間に、早鐘を打つ心臓の音が漏れそうだった。
スプリンクラーに火を近づけて、意図的に放水させる。
さらに防犯ブザーを鳴らして、驚いて部屋から出てくる人たちの中に架紀ちゃんを見つけ出そう、大作戦だ。
「火をつけて音を鳴らしたら、また非常階段に逃げ込む。そこで偶然その前を通った架紀ちゃんを見つけるか、隙を突いて『教義の間』とやらを探す。……そして二人で逃げるだけ」
理想的な展開を強くイメージする。
ライターをきゅっと握りしめること三秒。
手の震えは止まった。覚悟を決めてトイレの上に立ち、火を灯したライターをスプリンクラーへと近づけた。
──それから先の細かいことは覚えていない。
何しろ、本当にスプリンクラーから水が大量に放水され、全身ずぶ濡れになったのだ。
パニックになりながらも防犯ブザーを鳴らして女子トイレを飛び出した。
だが、焦りすぎて外の非常階段とは真逆の方向へ走り出してしまった。
さらには音に驚いて部屋から出てきた、太極拳で着るような上下白のチャイナ服姿の中年男性と鉢合わせになった。
咄嗟に「火事です! 助けて!」「きゃぁぁ!」と叫びながら、そのまま真っ直ぐに通路を駆け抜けた。
咄嗟に見つけた給湯室に逃げ込み、食器棚の死角に体を滑り込ませる。
「はっ、はっ、はっ……!」
口から心臓が飛び出しそうだ。体の芯が熱い。
なのに濡れたシャツが肌に張り付き、ぞっとするような冷たさを伝えてくる。
「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせ、濡れた髪から落ちる雫を拭った。
深呼吸しようとした瞬間、給湯室の前を誰かがバタバタと走り抜ける音がして、再び息を殺す。
耳を澄ませると「何があった?」「女子トイレで何かあったらしいぞ」と、大勢が駆け抜けていく足音。その音に紛れて、自分が投げ出したブザーの音もまだ鳴り響いている。
「い、一応……目的は達成されたの、かな?」
呼吸が落ち着き、腰を低くして外の様子を伺う。案の定、女子トイレの前には白い服の集団がわらわらと集まっていた。
だが、その中に架紀ちゃんの姿は見当たらない。
「どこにいるの、架紀ちゃん。ひょっとして二階なのかな……」
弱気が顔を覗かせたそのとき。斜め奥の部屋のドアが、ガチャリと開いた。




