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それでも目尻に涙が滲んでしまったので、風に驚いたふりをして拭った。

私は、再び歩き出した女性に自分から話し掛けた。


「すみません。電車に乗る前にキオスクに寄ってもらっていいですか」


「なぜですか」


「ご存知の通り、私は今からそちらのビルに行きます。輝夜さんにもお会いすると思うので、身だしなみを整えたいし、緊張しないように飴とか欲しいんです」


「……わかりました。手早くお願いします」


「はい。ありがとうございます」


よし。

これでビル探索に必要なものを買える。

あとはこの人から嫌がられても、しつこいと思われても、今から向かうビルのことを聞き出してやろうと腹を括った。


スマホを泣く泣くロッカーに預け、キオスクでしっかり買い物をしたあと、私が連れて行かれたのは泉大津駅という場所だった。


難波から泉大津駅までは南海本線の急行で二十分少々。

そこからタクシーで十分ほど走った場所で、外に降りた。

あたりはすっかり暗くなっていた。

難波や桜ノ宮とは違い、街灯も少なく、肌に夜が染み込むような暗さだった。

心許ない街灯の明かりを頼りに必死に周囲を見渡すと、どうやら住宅街ではないと分かった。

暗くてはっきりしないが、町工場や倉庫、三角屋根の建物のシルエットがいくつか確認できた。


そんな中、目の前の建物だけがぼんやりと明るかった。


「階様。ここが健照教、泉北支部。健照・メモリアルビルです」


「ここに架紀ちゃんが……」


目の前の建物は、ビルと言うよりは公民館のような趣だった。灰色の壁に、間口の広い玄関。

病院の入り口によく似ている。街外れの夜間病院を訪れたような気分になった。

見た目は三階建て相当の高さだが、奥行きはありそうだ。

飾り気のない外観が、いっそこの周辺に馴染んでいる。

──大声で叫んでも、誰かがこのメモリアルビルに来ることはなさそうだ。


「入り口まで案内します。付いてきてください」


小さく頷いて、女性の後を追う。

ここに来るまでに分かったのは、このビルで泊まり込みのセミナーが行われていること。参加者は、健照教に入信したばかりの人たちだということ。

指導役が数名付くのが通常の体制らしいが、今日は特別に幹部クラスが新人歓迎という名目でこのビルを訪れている。


だから、粗相がないようにと釘を刺された。

なにが新人歓迎だ。

ふざけるなと頭に血が上りそうになる。

けれど、手にしたバッグのずしりとした重さに「落ち着け」と自分をなだめた。


メモリアルビルの前。ガラス張りの自動扉の前で女性がぴたりと足を止めた。

そしてスマホを取り出し、指を動かした。輝夜さんに連絡をしているのだろう。

画面を叩く微かな音と、ざあっと風が建物の表面をなでる無機質な音が去ったあと、彼女は私を見た。


「ただいま二十時前。輝夜様から、二十時になったら入るようにと指示がありました。階様のタイムリミットは二十一時十五分だそうです」


十五分おまけしてくれたのだろう。

だが、ありがとうなんて絶対に口にしない。

ただ「そうですか」とだけ言った。

この時間も無駄にすまいと、ガラス扉の向こうをじっと見る。


中は吹き抜けの広いホールになっていた。

端に上へと続く階段がある。

節電しているのか、入り口、階段、エレベーター前にだけ明かりがついていた。

やはりここは、公民館か区民センターだったビルを健照教が買い取ったのだろう。


「あと二分で二十時です」


機械的な声にハッとして、彼女を見る。

やはり無表情だ。

でも電車では、私の質問を無視することなく話をしてくれた。答えてくれないこともあったが、彼女自身が健照教にどっぷり浸かっている、あるいは洗脳されているようには思えなかった。


「あの。なぜあなたはここにいるんですか? 健照教は、良くない場所だと思うんですけど」


返事がくるとは思わなかったが、聞いてみたかった。

すると、彼女はふと上を向いた。


「ここにいたら、殴られることはないからです。横になって寝られる。それだけです」


「!」


なんて虚無な言葉だろう。

彼女が無表情に見つめる夜空は、深い闇しか見えないような気がした。

私は今から架紀ちゃんを助けに行かなければならない。この人まで助ける余裕はないし、無責任に言葉をかけるべきではない。だけれども──


「ここまで連れてきてくれて、ありがとうございました……お元気で」


最後、一言だけ声をかけてしまった。

ぺこりと頭を下げた。


すると、「……三階……教義の間……」そんな小さな呟きが聞こえてきた。

ぱっと顔を上げると、彼女は無表情なままだった。


「お時間です。では、行ってらっしゃいませ」


機械的に、私の背中を押すように彼女は促した。

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