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事故物件の坩堝

「わ、私が……」


まさかの展開に動揺し、ずるりと身体が傾く。どすっと自販機に背中をぶつけた。


『大事なお友達なんだろ? 僕の権限で、あと二時間はスケベ親父たちに「手を出すな」と言ってある。その間に宮ちゃんが彼女を迎えに来て、ビルから脱出できたら宮ちゃんの勝ち。お友達からは手を引いてあげるよ』


「なに、それ……」


『簡単なゲームだと思ってくれたらいいよ。ちなみに、兄さんに言ったらゲームオーバー。誰かにこのことを告げてもダメ。このビルの敷地内に君以外の人間が踏み込んだら、その時点でゲームは終了だ』


声はどこまでも楽しそうだった。まるで今からパーティーの準備でも始めるかのようだ。

そして最後に──輝夜さんは参加の有無を私に尋ねた。

──「どうする、やる?」と。


考える間もなく、私は参加を告げていた。


「やる。早くビルの場所を教えて!」


ああ、返事をしてしまった。

でも、架紀ちゃんを見捨てることなんてできない。そんなことをしたら、私は一生後悔して生きていくことになる。


『そう来なくっちゃ』


「……もし、私がビルから脱出できなかったらどうなるの?」


『お友達は憐れ、慰みものに確定。宮ちゃんは僕と同棲、そして結婚かな』


「そんなの、負けのオッズが高すぎる!  私が勝ったら、お兄さんに……神楽さんと向き合って! 今まで心配させたことを謝って、やってきた悪いことをすべて謝りなさいっ」


『ふ、ふふっ。いいよ。怒ってて、かわいいなぁ』


「茶化さないで」


『ごめんごめん。でも、それは君が勝てたら、の話だからね。では、そういうことでゲームを始めよう。ビルの場所は使いの者から聞いて。じゃあ、また後で』


「え、あ、使いの者って──」


突然通話が切れたスマホを唖然と見つめていると「階様。お迎えに上がりました」と声をかけられた。


心臓が口から飛び出しそうになるのを堪えて振り向くと、一人の女性が立っていた。

あのレンタルスペースにいた『ピュアライト』のスタッフを彷彿とさせる服装に、また心臓が跳ねる。


清潔な白シャツにパンツスタイル。年齢は中年。けれど、あの時のスタッフのような笑顔は微塵もない。感情をごっそりと削ぎ落としたかのような無表情だった。


この人、いつからそこにいたんだろう。ずっと後をつけていたのだろうか。

ぐっと腰が引けそうになるのを、なんとか踏みとどまる。


「輝夜様からの伝言です。今よりスマホの使用を禁じます。まずは電源を落としてください」


言われてすぐには実行できなかった。連絡手段を断たれるのはあまりに痛い。なんとか切り抜けられないかと思案するが。


「輝夜様からの伝言です。今よりスマホの使用を禁じます。まずは電源を落としてください」


一字一句、同じ言葉を、同じイントネーションで繰り返された。まるで機械を相手にしているようだ。私は観念し、無言で女性の前でスマホの電源を落とした。


「ご協力ありがとうございます。では、これからビルに向かいます。私の横を歩いてください。妙な動きはなさらないように」


こくりと頷き、言われるままに横を歩く。


「これから電車に乗ります。およそ三十分ほどで目的地に着きます。スマホは駅のロッカーに預けていただきます」


「はい……」


三十分。必然的に、架紀ちゃんを助け出せる時間は一時間半しかない。

私にやれるだろうか。いや、やってみせる。

私にはまだ、切り札の白狐様がいる!

そう思うと、少しだけ頭が冷静になってきた。輝夜さんが私を完全に見下しているのは明らかだ。ふざけるな。絶対に勝ってやる。


架紀ちゃんを慰みものになんてさせない。私も輝夜さんと同棲や結婚なんて、死んでもごめんだ。

そして、絶対に漆喰さんに謝らせてやる。


そうだ。ビルから逃げ出さなくても、誰かが来るまで隠れていればいい。ビルなら外部へ繋がる手段だって何かあるはずだ。


ゲームは裏をかいてこそ。

この時点ですでにゲームは始まっているのだと、必死に頭を働かせる。


女性は飲食店が並ぶ道をコツコツと歩き、すっと横に曲がった。そこは商業施設から南海難波駅へと続く連絡通路だった。ビルがあるのは、きっと南海沿線のどこかなのだろう。土地勘がないのが悔しい。


私は心の中で、強く念じた。

(白狐様。聞こえますか。お願いします……漆喰さんに、このことを伝えてもらえませんか)

他の人は巻き込めない。警察だってすぐには動いてくれないだろう。


でも、漆喰さんに伝わりさえすれば──彼なら、私よりずっといい最善策を導き出せるはずだ。


(白狐様、私に力を貸してください。もし聞き入れてくださるなら……なんでも言うことを聞きます。聞き届けてくれたなら、何か反応してっ!)


すると、なんの前触れもなく、びゅうっと一陣の風が巻き起こった。

私と女性は驚いて立ち止まる。

これは、白狐様の反応に違いない。


(お願い、今私の身に起きたことを、漆喰さんに伝えて!)


再度願うと、また激しく風が吹いて──そしてピタリと止んだ。


私には見えないけれど、きっとあの高貴な白狐様が漆喰さんのもとへ向かってくれたのだと確信した。周りの人たちも、突然の突風にきょとんとしている。


我ながらざっくりした願いだけれど、漆喰さんなら霊の言葉もわかるはず。白狐様とも意思疎通ができるはずだ。

ビルの場所だって、彼なら健照教の持ちビルを把握しているかもしれない。すぐに助けに来てくれるはずだ。


悲観なんかしない。ポジティブに行こう。

泣きそうになる感情を、必死に叱咤した。

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