⑤
「これは……血……?」
「凄い。君の狐に引っ掻かれた」
「!」
この人も漆喰さんと同じで、やっぱり霊が見えるんだ!
「霊体のくせにやるじゃないか。実に面白い」
輝夜さんは手の甲に走った赤い亀裂を、ぺろりと舐める。その艶めかしい動作に、自分が獲物として舌なめずりされているような感覚に陥った。
「神様を貶めたことは何度かあるけれど、君のは骨が折れそうだな。ふふっ」
やっぱり怖い。
魅了されたようにその場から動けずにいると──バッグの中のスマホが震えた。その振動に、まるで呪縛から解けたように素早く画面を見ると、漆喰さんからだった。
私は無我夢中でバッグの中からスマホを取り出した。その拍子にバッグを落とし、中身を地面にぶちまけてしまったけれど、そんなことを気にしている余裕はなかった。
素早く通話ボタンを押し、スピーカーモードにする。
「漆喰さんっ。今、私の目の前に輝夜さんがいます。なんだか、めちゃくちゃ綺麗で怖いですっ」
スマホをぎゅっと握り締める。
「しっくいさん……? って、もしかして」
輝夜さんはまじまじと私を見つめる。漆喰さんと同じオリーブグリーンの瞳で、そんな風に見ないでほしい。
「ど、どうしましょう。頑張って捕まえたらいいですか? それとも、警察を呼んだ方がいいですかっ」
胸に抱き締めたスマホのスピーカーからは、何かくぐもった音がするだけで、漆喰さんの声は聞こえてこない。電波が悪いのかもしれない。
「君、ひょっとして漆喰神楽を知っているの? 兄さんの関係者? カノジョ?」
「あなたには関係ありません」
そう言い放った瞬間、血に汚れた手が私の胸元にあるスマホを素早く奪い取った。輝夜さんはそのまま私のスマホに話し掛ける。
「もしもし? 兄さん。久しぶりだね、輝夜だよ。今、宮ちゃんと会っている……宮ちゃん、気に入ったから僕が貰うね。兄さんにはあげない。じゃ、そういうことで。ばいばーい」
『──』
スマホから何かが聞こえた瞬間、輝夜さんの手によって通話は一方的に終了された。
気に入ったって、どういうこと?
意味がわからない。緊張で心臓が痛いほどだ。
私はこれから、何かされてしまうのだろうか。
そんな危機感に全身が痺れそうになるのに、目の前の人物はおっとりと、血に汚れた手のまま私の落ちたバッグの中身を拾い集め出した。
その所作が上品で、やはりどこか漆喰さんに似ていることに、私は眉をひそめてしまう。
「今日はとても面白いと思ったことが二つもあった。一つは宮ちゃんと狐。もう一つは兄さん。気分がいい。だから今日のところはお暇するよ。はい、バッグをどうぞ」
最後にスマホをバッグに放り込むと、私の手にそれを半ば無理やり握らせた。
その手の冷たさ。
そして、血に濡れた手で物を掴むという異常性に、私は言葉を失った。
普通、手が血で汚れていれば洗うだろう。真っ先に清潔に保とうと思うはずだ。ましてや汚れた手で他人の物に触れるなんて、普通なら躊躇う。
けれど、この人は全く迷いがなかった。
私の私物に、平然と触れたのだ。
それが怖かった。普通じゃないことを、普通にする。
それがこんなにも恐ろしいことだと初めて知った。
輝夜さんは「じゃあね、また」と言い残し、鳥居をくぐってゆっくりと神社を出て行った。
いつの間にか辺りは夕闇に包まれていて、足元から忍び寄る夜の気配に肌が粟立つ。
完全に輝夜の背中が見えなくなった頃、神社の門を閉めにきたお母さんが現れた。
「っ、お、お母さん……っ」
「あらやだ。宮ちゃんじゃない。こっちに帰って来てたの。どうしたの?」
ふわりと笑うお母さんの姿に、張り詰めていた涙腺が一気に緩んだ。
私はバッグを再び地面に落とし、お母さんにしがみついて泣きじゃくったのだった。




