③
私は団地から帰宅した後、ろくに食事も取らずにお風呂に入ってぐっすり寝た。
少しばかり、疲れてしまったのだ。
惰眠を貪り、うっすらと目を開くと、部屋に差し込む光がオレンジ色になっていて慌てて飛び起きた。
パジャマから部屋着に着替えて家事に勤しみ、冷蔵庫にあったお漬物と冷凍ご飯をレンジで温めてお茶漬けにする。とりあえずはそれで空腹を満たした。
食器を洗い終えて時計を見れば、十九時過ぎ。漆喰さんはまだ帰ってきていない。
夜に話すと言っていたけれど、もう少し遅い時間になるかもしれない、と不安がよぎる。
「私を送ってから、すぐに出て行ったきりか……漆喰さんの辞書には『家でゆっくりする』という言葉はないのかな」
布巾で食器をキュッキュッと拭く。
広いリビングに響く生活音は、なんだか機械的だ。手元からは水の匂いすらくっきりと分かる。
綺麗すぎるリビングを見つめていると、モデルルームに勝手に侵入したような気分になる。
そうか。
あの団地の空気感に、少し似ているんだ。
「私の家だったら狭いながらも、ずっと誰かいる気配があったし。テレビの音とか……ご飯の香りが、ずっとしていたなぁ」
アットホームな家庭、家族団欒。そういったものを拒むような硬質さが、ここにはある。
「それは漆喰さんが、拒んでいるから、とか……」
独り言になんだか気まずくなり、言葉を忘れるように拭き終わった食器を収納棚に片付けた。
ちょっぴりホームシックになりながら、団地で見せた夢のこと、朝に会ったお婆さんのことを思い出し、冷蔵庫に背を預けてぼんやりと立ち尽くしていると──ガチャリと、リビングの扉が開く音がした。
ビクッとして振り返ると、片手にパステルブルーの紙袋を持った漆喰さんが立っていた。
慌てて冷蔵庫から背を離す。
「あ、お帰りなさい」
「ただいま。これをどうぞ」
すい、と差し出された紙袋を受け取ると、中には花柄のレトロな缶が入っていた。
「これ……パティスリー・フルールのクッキー缶! わぁ、素敵」
SNSで度々話題になる有名店のお菓子に、一気に気持ちが華やぐ。けれど「なぜ私に?」と漆喰さんに視線を投げかけた。
「朝は悪かった。これはお詫びだ」
気を使ってくれなくてもいいのに、と思っている間にも漆喰さんは言葉を続ける。
「さて、今から話したいと思うんだが、時間はいいかな?」
「はい。私は大丈夫です。クッキー缶、ありがとうございます」
「じゃあ、ベランダで話そうか。私物を置いてからすぐに行くから」
「わかりました」
なぜベランダなのだろう。今日は寒くないし風も穏やかだけれど。
不思議に思いながらも、私もお菓子の袋を部屋に置いてからベランダへ向かった。
ウッドデッキが敷かれたベランダには、足元に間接照明が灯り、まるでプライベートラウンジのような雰囲気だ。温かみのある電球色が、高級感と落ち着きを演出している。
そこからは閑静な住宅街と公園が見渡せ、都会のおしゃれなスポットのようだった。
「こういうライトとか、腰壁が曇りガラスなのがお金持ちって感じだよね」
独り言をこぼしながら、自分で買ってきた三百円のサンダルを履いてシルバーの手すりに近寄る。
月は明るく、周りは静かだ。
さて。漆喰さんは私の話を聞いて、どう思うのか。何を語ってくれるのか。
眼下に広がる桜ノ宮の夜景を見つめていたら、背後でカラリと音がした。
振り返ると、漆喰さんが両脇に背の高いスツールを抱えていた。
「お待たせ。立ったままじゃ辛いと思って持ってきた」
ガタリと私の横に置かれたのは、キッチンの前にあったスツールだ。
「ありがとうございます」と言って座る。
足は下まで届かないが、目線が高くなったおかげで、夜景が先ほどとは違って見えて少しワクワクした。
漆喰さんはベランダの端に置かれていた灰皿を手に取り、私の横に座った。
──足がしっかりと地面に着いているのが羨ましい……じゃなくて。
「あれ、漆喰さん、煙草を吸うんですか?」
彼は器用に、自分の膝の上に灰皿を置いた。
「まぁね。家の中で吸うと匂いが残るから、ここで吸っている。付き合わせてすまない」
漆喰さんはニットのポケットからジッポとスリムな箱を取り出し、スティックのような細い煙草を抜き取った。
その姿は、とても絵になっていた。
オリーブグリーンの瞳が照明を受けて、蠱惑的にも見える。私は不意に、胸の高鳴りを感じてしまった。
「いえ、大丈夫です。でも、なんだか意外です」
「人間いろいろとあるから。俺が煙草を吸うのは、自分のストレスと向き合う時と……もう一つは秘密」
漆喰さんは、ふっと微笑んだ。
ジッポで火を点けるその手つきが、女性をあやすような繊細な動きに見えてしまい、私はまたドキッとしてしまう。




