9.
お兄ちゃんの話をするね。
私のお兄ちゃん、茉莉緋色はとっても優しくて、とってもかっこよくて、とっても素敵なお兄ちゃんです。私が小さい頃からずっと傍にいてくれて、いつだって私の事を一番に考えてくれて、どんな時も頼りになる最高のお兄ちゃんなのです。
お兄ちゃんのおかげで藍色はこんなに大きく健やかに育ちました。
だから私の願いは一つ。
……お兄ちゃんにも幸せになって欲しいな。
今日はお兄ちゃんの帰りが遅いみたい。あんまり珍しいからメッセージを送ったら学校の用事で遅くなるって。こんなこと初めてだ。今までだったら何があっても遅くなることが分かった時点ですぐに家か私のスマホに連絡していたのに。
「……あの彼女さんかな」
もしそれを忘れるような可能性があるとすれば、あまり考えたくはない事を呟いた。
お兄ちゃんには彼女が出来たのかもしれない。二日連続でこの家にやって来たクラスメイトの九常さんだ。お兄ちゃんも高校二年生だし彼女ぐらいできてしまうのは分かる。だってあんなに優しくてかっこいいんだから、みんな好きになってしまうはずだ。
そしてその大勢の中にはきっとお兄ちゃんが好きになってしまうような人もいるだろう。
「お兄ちゃん小さい子がタイプなんだ……」
私とあんまり背丈変わらなかったな。それならあの人じゃなくて藍色でも……。
「……いや、これじゃダメだ」
時々、私の中には良くない考えが浮かんでしまう。これもその一つだ。この前も九常さんに当たり散らすような真似をしてしまったし、その後もお兄ちゃんに態度悪くしてしまった。
でもなぁ、良くないってわかっててもついあんな風になってしまう。だって、お兄ちゃんが盗られるだなんて考えたくも無い……。
考えたくも無いけど……。
「我が儘だね、私」
こんなのは私の我が儘だ。それに本当は分かってる。このままじゃいけないってことぐらいは。私もお兄ちゃんもこのままじゃ本当の幸せを掴めないってことぐらい。
「……とりあえず、晩御飯作ろうかな」
帰りがいつになるかはわからないって言ってたし、私が作って上げなきゃ。お兄ちゃんはいつも簡単な風にやってるし私にだって出来るはず。家庭科の授業でもやったことだし。
美味しい料理を作ってお兄ちゃんを驚かせちゃおう!
冷蔵庫を開けて何を作るか考える。いつもお兄ちゃんはこうしているしきっと見ているだけで何か頭の中に思い浮かんでくるはず。
「ん、ん~?」
なんかいっぱいあるなぁ、って感想しか出て来ない。お肉とか鳥と豚と牛があるけどどれを使えばいいんだろう? 野菜もどれがどれかわからないし、あ、魚もある。
「……一旦休憩」
冷蔵庫の戸を閉じる。どうしよう、お兄ちゃんにはご飯作ろうかなんて送ったけど何を作ればいいのかわからない。調理実習の時は何を作ったっけ?
「……鮭の塩焼きと、味噌汁!」
よし、これだ! 鮭は無かったけどなんか魚の切り身があったし、味噌汁は味噌を溶かして豆腐とわかめ入れればいいし簡単! なはず!
「お兄ちゃんも喜ぶよね」
冷蔵庫を開けて必要そうな物を次々と取り出す。気合を入れて、いざ調理! だ。
あれから三十分。魚の切り身の焼いたやつが出来始めている。味噌汁はまだ、ちょっと、ね。
「火加減とかよくわからないな……。表面に焦げ目が出来るぐらいが良いんだっけ?」
一番火力をあげればいいのかな? まあ火が通ってれば食べれるし強い方がいいよね。
「味噌汁もそろそろ作らないと」
とりあえず鍋に水を入れて沸騰させたら豆腐とわかめを入れて味噌を溶かせばいいね。簡単だ。
「お兄ちゃんも味噌汁はよく作ってるけど簡単だからなのかな」
帰って来たら聞いてみよう。まずは完成させて驚かせないとね。
豆腐をおそるおそる切って乾燥わかめを探し出す。
「わかめどのぐらい入れればいいんだろう?」
……まあ適当でいいか。
「あ、そろそろ魚は良いかな?」
ふと思い出してフライパンを覗き込む。
「……あ」
焼いていた面が思ったより黒焦げになっている。し、失敗した……。
「……表面だけ切ったらどうにか食べられるかな?」
とりあえず火を消して魚を皿に避ける。と、とりあえず焦げてる所は切り取って、なるべく綺麗な所をお兄ちゃんに上げよう。
ナイフとフォークを取り出し四苦八苦しながら焦げ部分を切り取る。この作業は思ったよりも手間がかかる上に精神的な疲労感がもの凄く強い。こんな簡単なことすら出来ないのかと自分で自分を貶める気持ちが沸き上がって来る。
「私、魚を焼くだけも出来ないんだ」
五月の少し暖かさを増して来た頃合いにも関わらずなぜだか空寒い感じがした。どこか頼りなく、無常で、冷たい、そんな感じだ。カチャカチャと食器の擦れる音を聞いていると涙が滲む。
一人だ。
孤独に反響する音が私に襲い掛かって来る。
ピンポーン。
その音を切り裂くようにインターホンの音が鳴った。
「お客さん? こんな時間に?」
……不審者? とりあえずモニターを見て知らない人だったら居留守しよう。
階段横にあるモニターまでそろりそろりと足音を消して進む。一体どんな人が……、強盗とかだったりしないよね?
「……あ」
モニターに映っているのは見覚えのある人、九常さんだ。また来たんだ……、やっぱりお兄ちゃんの彼女さんなのかも。
あ、でも誰かもう一人いる。身体の半分ほどしか映ってないけどそれが誰かはすぐにわかった。
「お兄ちゃん?」
顔が映っていなくとも見間違えるはずが無い。ずっと一緒にいるんだから。
その場を飛び出すようにして玄関へ、そして鍵を、戸を開ける。その向こうには九常さんとお兄ちゃんが並んで立っていた。ただ、その、どんな反応をすればいいんだろう?
「……えーと?」
「あ~、実は鞄を学校に忘れて、鍵もその中でな」
「あ、うん」
そう言われて見ればお兄ちゃんは鍵を持ってるからわざわざインターホンを鳴らす必要はなかった。でも私が聞きたいのはそんな事じゃない。隣でどこか気まずそうに立っている女の人の事だ。
拳を強く握り締める。これは別に殴り掛かろうとかそういう訳じゃない。ただ、力を入れて耐えていなければ衝動的に叫び出しそうなだけだ。
お兄ちゃんは私のだ! なんて。
「……九常さん、が、どうしてここに?」
心の声をどうにか抑え込んで尋ねる。お兄ちゃんも九常さんも中々答えようとはしない。ただお互いに顔を見合わせて説明に困った様な苦い顔を浮かべている。
私に言い辛いような事をしてたんだ。
大きく息を吐いた。どうにかまだ耐えている、お兄ちゃんの前で醜態を晒さぬように耐えている。いつ決壊するかわからないけれど、私はお兄ちゃんの為に頑張ってるんだ。
そんなことを考えていると九常さんが不意に口を開いた。
「……悪いけど少し上がらせてもらっていい? 茉莉君と少し話があるから」
それってここに来るまでに終わらせられなかったの?
「ど、うぞ~」
色々な言葉を飲み込んで二人を中へ招き入れる。……まさかお兄ちゃんの彼女さんをこの家に入れる日が来るなんて想像もしなかったな。
お兄ちゃんと九常さんは二階へと上がって行く。多分、お兄ちゃんの部屋で二人だけで内緒の話をするのだろう。もしかしたらそれだけじゃないかもしれないけど……、これ以上は想像したくない。
リビングに一人、椅子に座り黒い液晶を見つめる。お兄ちゃんは九常さんとどんな話をしているんだろう。楽しそうにしているのか、それは間違いない。だって彼氏彼女の関係なんだもの、話しているだけできっと楽しい。私と話す時よりもきっとずっと楽しそうにしているはず。
お兄ちゃんが私のヒーローになってくれた日の事を、体調を崩して寝込んだ時を、宿題を一緒にやってもらったことを、たくさん料理を作ってくれたことを、そして最後に台所にある焦げた焼き魚を思い出す。
私は、お兄ちゃんにずっと傍にいてもらって、分からないことは教えてもらって、できないことはやってもらって、そうやって生きて来た。お兄ちゃんは私の為に色んな事をしてくれたんだ。でも私がお兄ちゃんにしてあげられた事は何も無い。
「そりゃ彼女さんが出来たら夢中になるよね」
きっと私が九常さんに勝っている部分なんて無いんだろう。
……たった一つの事を除いて。
大きく深呼吸をした。そして立ち上がり、天井を、その向こうにいるお兄ちゃんと九常さんを見つめる。
行こう。
階段を上がり、そのままお兄ちゃんの部屋の前へ。そしてそこにある扉に手をかける。
「お兄ちゃん!」
大きな音を立てて扉を開いた。二人は驚きながらもどこか余所余所しい態度で私を見つめている。
「あ、藍色、どうかしたか?」
「えと、何かあったの?」
もしかしたら私は二人の邪魔をしてしまったのかもしれない。でも構わない。……だってそれも今日で終わりだから。
「隠さなくていいよ」
「え、あ、な、何を?」
あからさまに狼狽えるお兄ちゃんと対照的に表情を消した九常さん。その様子は二人が私に隠し事をしているという証拠だ。
やっぱりそうなんだ……。
「……二人は、付き合ってるんでしょ?」
反応を見るのが怖い。たとえそうだとわかっていてもお兄ちゃんが人のものになるなんて辛い事だ。お兄ちゃんはずっと私のお兄ちゃんだった、ずっと一緒にいてくれたしこれからもずっと一緒にいてくれると思っていた。
でも、違うんだよね。
「私ね、二人の事、祝福するよ。お兄ちゃんが選んだ人だもん、きっと優しくてかっこよくて自慢のお兄ちゃんに釣り合うような人に決まってる。背丈が子供みたいでもきっと中身は素敵な女性なんだよね」
ああ、涙が溢れそうだ。でも、ちゃんと言わなきゃ。
私は九常さんに絶対に勝っている部分が一つだけある。それは……、
「だから、お兄ちゃん……。幸せになってね」
お兄ちゃんの幸せを誰よりも願っているという事だ。
精一杯の笑顔と共に二人を見た。二人も私をじっと見ている。その表情は……。
「あれ?」
関係を見透かされた驚きとか、突然とはいえ祝福された喜びにはとても見えない。お兄ちゃんはなんだか気まずくて目も合わせられないような感じで天井の隅を見ているし、九常さんは頭痛でもするのか頭を抱えて苦い顔をしている。
「あの、えっと?」
つい困惑して涙も引っ込んでしまう。何だろう、この反応。
「藍色」
「お兄ちゃん?」
「全然違う」
「え?」
「その、何を勘違いしたか知らないがマジで全然違うんだ。別に付き合うとか全く無いぞ」
「え?」
え?
えええぇええええぇ?
あれぇ?
「……えっと、デートしてて遅くなったんじゃ?」
「違う」
「今も二人でいるのが楽しくてここまで来たみたいな」
「それも違う」
唖然、って言うのはこういう時に使う言葉に違いない。
これまでずっと考えて来たことは私の独り相撲で事実とは一切関係ありませんでした? え、えぇ? そんな、事が?
「じゃ、じゃあ何で二人でここに?」
「それはだな……」
「学校の課題よ」
九常さんが私たちの話に割って入る。
「か、課題?」
「連休の課題で、席が隣同士の人でやる課題を出されてね。私が連休に用事があるから無理を言って残って今日中に終わらせようとしたの。ただ思ったよりかかっちゃって学校を追い出されちゃってね、申し訳ないけれど家にお邪魔させてもらって終わらせようとしたの」
「そうなの?」
「ああ、まあ、そんな感じ」
そ、そんなことが? あ、でもグループでやる課題とかあるもんなぁ……。その一環みたいなものだろうか?
「その課題は終わったの?」
「ええ。後は一人でも終わらせられるぐらいまでは。本当に、その、二人には迷惑を掛けてごめんなさい」
む、むぅ、大人な対応だ。やはりお兄ちゃんの彼女さん……、じゃないんだった。なんか負けてる気がしてたけど、それだったら心配いらないのかな?
「私は帰るわ。二人には迷惑を掛けてしまったし今度お礼にお菓子でも差し入れするわ」
「あ、はい……」
立ち上がる九常さん。背丈は私と変わらないぐらいなのに不思議とその姿は大きく見える。これが強力なライバルという事なのだろうか。心配いらないとか言ったけどやっぱり負けたくないなぁ。
階段を降りて行く九常さんに私たちは並んでお見送り。とりあえずこの敷居は二度と跨がせたくない、お兄ちゃんの彼女じゃないなら跨ぐ必要ないもんね! あ、学校には変な課題を出さないように言っておかないと。
「それじゃあ。茉莉君、ありがとうね。おかげで助かったわ」
「ああ。また学校でな」
手を振り外へ向かう九常さんを私たちは玄関で見送った。これで悩みの種は無くなったかな。でもわざわざ家にまで来たとなると九常さんの方はお兄ちゃんを狙っているかもしれない。今後はより警戒を密にする必要がありそうだ。お兄ちゃんだって内心は満更でも無いかもしれないし。
そう思ってお兄ちゃんの顔を見た。
「……お兄ちゃん?」
お兄ちゃんは私の呼び掛けにも答えない程に何かを考えながら玄関の戸を、その向こうに消えて行った九常さんの方を見ている。ずっと視線をそこから外さない。
袖を掴んで揺らしてみる。
「お兄ちゃん?」
「ん、ああ。藍色、どうかしたか?」
ようやく気付いた。私に向ける表情はにこにこと笑顔に飾られていたけれど、外を見つめるお兄ちゃんの顔は違った。
何かを心配するように、自分がそこに行けない事をもどかしく思う様に、悔しさをただ噛み締めるように、ただただ痛みを耐えるように、外を見つめていた。
私は馬鹿じゃない、と思う。少なくともお兄ちゃんの事なら誰よりもよくわかると自負しているつもりだ。
お兄ちゃんは私に隠し事をしているんだ。その内容までは分からないけど、その事でお兄ちゃんは苦しんでいる。
「行かなくていいの?」
「……何言ってるんだ? 九常さんも言ってただろ? 課題もほとんど終わったんだ。もう俺は必要ないんだよ」
「でもお兄ちゃん、さっきはついて行きたそうにしてたよ?」
お兄ちゃんは顔を歪めながら小さな声で言い訳するように、そんなわけないだろ、と呟いた。なんてわかりやすいんだろう。
お兄ちゃんはいつだって私の事を一番に想ってくれる。他の人に目移りなんてしないで私だけを見ていてくれる。私が不安に怯えぬように、私が災難に襲われぬように、私が孤独に打ちひしがれぬように、他の何よりも優先して私の事を大事にして来たんだ。
でも私は時々思ってしまうんだ。もしも私がいなかったらどうだったんだろうって。
「お兄ちゃんは私のヒーローだよね」
「ああ、勿論だろ? 俺はいつだって藍色のヒーローさ」
私の問いに躊躇うことなく答えてくれるのがお兄ちゃんだ。それが出来るのはお兄ちゃんが私の兄だから、ではない。
お兄ちゃんが優しい人だからだ。
「……行ってもいいよ」
「……どこに?」
「行きたいんでしょ?」
私は外を指差した。
「……いや、俺は別に」
「お兄ちゃんは私のヒーローだよそれは今までもこれからも変わらないと思う」
私がお兄ちゃんのおかげで普通の暮らしに戻れたのは事実だし、これからもきっとお兄ちゃんの世話になって生きて行くのだと思う。
でも、そのせいでお兄ちゃんが自分の幸せを掴めないのは嫌だ。
「でもね、少しぐらい休んでも良いんだよ」
「休む?」
「今からちょっとだけ、藍色のヒーローはお休み」
お兄ちゃんは口を噤んで目を丸くしている。
驚いた? 小さい頃から藍色だって成長してるのだ。
「ちょっとぐらい他の誰かのヒーローになったっていいんだよ」
そっ、とお兄ちゃんの背を押した。ずっと私を支えてくれた大きな背中を、ほんの少しだけでも助けになればと後を押す。
一歩前に出たお兄ちゃんはこっちを見なかった。靴を履くともう一歩、また一歩と前に出て戸を開ける。外との境で一瞬立ち止まり、
「藍色、ちょっと出掛けて来るから、晩御飯用意して待っててくれ」
「うん。待ってるね」
それだけの言葉を交わして出て行った。
大きく息を吐く。緊張が解けて力が抜けて行く。こんな風にお兄ちゃんを見送る日が来るなんて思いもしなかったな。
「頑張ってね、お兄ちゃん」
きっとお兄ちゃんなら上手く行くよ。私は私に出来ることを……。
「……あ」
最後の言葉を思い出す。晩御飯用意して待っててくれ、って……。
「晩御飯、どうしよう」
台所の惨状が目に浮かぶ。どのぐらい時間があるのかわからないけど……、ここから大逆転の道はあるだろうか?
「が、頑張れば、きっと……」
まずは、まずは……。焦がした魚の隠蔽からかなぁ。




