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ヒロイック・アバンチュール  作者: 藤乃病


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10/12

10.

 私の話をしよう。

 生まれた場所も年も分からない。父も母もそんなことは教えてくれなかった。覚えているのは小さなアパートで一人夕陽を見つめていた事。そうしていれば偶に二人が帰ってきたことだ。

 血塗れで煙草を吹かす父は靴のまま部屋に上がり込んでソファにどっかりと座り込む。煙が天井へ溜まって行くのを眺めるのは二人が帰ってきた時だけのちょっとした娯楽だ。

「お、お前まだいたのか。ほうら、お前も吸ってみろ」

 父は私を見つけるとそう言って煙を吹きかけてくれた。もっと小さな頃はその煙が苦しくて泣く事もあったが、そうすると二人にうるさいと言って殴られるので我慢するようになった。そうでなくとも話しかけると邪魔をするなと怒られるので声を出すことは良くないことだとわかっていた。きっとあれは大人にだけ許された特権なのだと思う。

「ちょっと、ソファが汚れるから着替えてから座ってよ。血が付いたら洗うの大変なんだから」

 母は父によくそう言って怒っていた。後で知ったが確かに返り血の付いた服で座ったりすると色々と汚れてしまう。母は正しいことをいつも言っていた。

「うるせえな。ガキ構ってやってんだからちょっとは労えよ」

「たかだか子供構ったぐらいで偉そうにしないでよ。そんな子死んだって別に構いやしないんだから」

「ははは! だとよ、可哀想になぁ」

 私はただ笑みを浮かべるだけだ。きっと私は何か問題があって、だから父も母も私を褒めたりはしない、死んだって構わないと言うのだろう。

 私に足りない物は何なのだろう?




 時間が経って私も随分と大きくなった。それでも生活は変わらない。精々暇を潰すのに部屋の中で身体を動かす時間が増えたぐらいだ。相変わらず父と母は偶にしか帰って来ないし、帰って来た時もいつも通りの事ばかり。

 これからもきっと繰り返しの日々が続いて行くのだと信じていた。

「おーう、帰ったぞ~」

 ある日、父は酔って帰って来た。商売道具の剣を背負ったままふらふらとこっちへやって来てソファに座る。

「いやぁ、今日の獲物は中々だったな。久々に良い稼ぎになったぜ」

 そんなことを言いながら上機嫌で笑い懐から酒を取り出し煽る。半分ほど床に零れていたがそんなのも気にならないほどに楽しそうでゲラゲラと笑っていた。

「ちょっと、あんた商売道具は家に持ち込まないでって言ったじゃない! すぐ振り回してそこら辺を傷だらけにしちゃうんだから!」

 母が怒りながら部屋の中へ。こんな風に怒っているのも見慣れたものだ。幼い頃からずっと同じことが起こっているんだから。

「おうおう、稼ぎ頭に対してなんだその態度はぁ。ったく、今日のターゲットだって俺が全部殺して回ったんだぞ。お前は逃走の準備してただけだろぅ」

「あたしのおかげでこうやって無事でいられるんでしょうが!」

 二人は殺し屋だ。依頼を受けてターゲットを殺す、非常に単純なお仕事。私もいつか二人みたいになるんだろうか、なんて思っていた。

「だいたいあんたいっつも態度がでかいのよ! まるで一人で何もかもやってるみたいにさぁ、ちょっとはあたしの苦労ってもんも考えなさいよ!」

 この日は母の虫の居所が悪かったみたいで、いつもよりもくどくどと長々と文句を言い連ねていた。父の酔いもそれを聞いている内に醒めて来たのか段々とばつが悪そうに視線を逸らす。

 その先でたまたま父と私の目があった。

「おいお前、あの鬼婆をちょっと殺してみろ」

 それは、後から思えば殺し屋のジョークだったのかもしれない。本当に何もかも終わってからはそう思う。

 それに対して母は怒り心頭のようで、

「ふざけた事言ってんじゃ無いわよ! 殺されるのはあんたの方よ!」

 なんて叫ぶ。これには父の方も頭に来たのか手に持っていた酒瓶を投げ付けた。

「……お前なあ、誰のおかげでこの仕事やれてると思ってんだ!」

「私のおかげでしょうが! ろくに知恵も何も無い体力馬鹿だけで殺しが出来ると思ってんの!?」

 二人の言い争いはここから更に過熱していく。過熱していくのだが……、その内容はさっぱり覚えていない。覚えているのは私の事を忘れるぐらいにその争いが過熱していたという事と、小さな一つの気付きだ。

 私は人を殺したことが無いから二人にとってどうでもいい存在なんだ。

 ただそれだけの気付き。

 だって父も母も殺し屋で多くの人を殺すことで生きる糧を得ている。だとすれば人を殺すのは正しい事で、それをやったことが無い私は二人にとって価値が無いのは当然じゃないか。

 私は立ち上がり、父の背にある剣を取った。

「キヒ」

 ああ、私はこれで……。




 父と母の死体はずっとそこにあった。あれから僅かたりとも動くことなくずっとそこにあった。あまりにも動かないのでちょっと剣で突いてみたり、悪い子らしくばたばたと音を立ててみたりしたけれど何の反応も無い。

 どうして二人は何も言ってくれないのだろう?

 私はちゃんと殺したはずなのに。だって剣を取ったら殺し方は不思議と理解できた。目の前の父と母に剣を振り下ろせば良いと頭の中に声が響いたようにわかったのに。

 何か間違えたのだろうか。

 ……頭の中には今も声が聞こえ続けている。

 殺せ

 殺せ殺せ

 殺せ殺せ殺せ

 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ

 鳴りやむことなく声は聞こえ続けている。

 ……ああ、そっか。まだ足りないんだ。きっと私はもっと多くを殺さないといけないんだ。まだ足りない、まだまだ足りない。

「キヒ」

 蠅の命も。

 まだ。

「キヒヒ」

 雀の命も。

 まだまだ。

「キヒヒヒ」

 猫の命も。

 まだまだまだ。

「キヒヒヒヒ」

 犬の命も。

 まだまだまだまだ。

「キヒヒ、キヒヒヒヒヒ、キヒヒヒヒヒヒヒヒヒ」

 狐も狸も鮒も鮠も甲虫も蝶もアナグマも猿も蝙蝠も燕もまだまだまだまだまだまだまだまだ。

 もっともっともっともっと、殺せ殺せ殺せ殺せ!

 ここは公園、一人の男がいた。

「キヒ」

 ああそうだ、人も殺さないと。

 剣を抜き歩き出す。




 ふと気付くと私の手から剣は失われどこだかわからない場所を彷徨っていた。記憶はぼんやりしているけれど不思議と頭はすっきりしている。

 あれほど繰り返し聞こえていたはずの声もいつの間にか消えてしまった。私は一つの指針を失ってしまったかのように途方に暮れる。

 否、失くしたのなら取り戻せばいい。ここがどこなのかはわからないけれど、目的地ははっきりしている。あの剣を最後に抜いた公園へ行こう。きっとそこで剣を落としたに違いないから。

 邪魔な壁を乗り越えて真っ直ぐ進もう。いつかはあの公園に辿り着く、そんな気がする。日が傾いて空が赤く染まっている、これから暗くなるのは知っていた、急げ急げと足を速める。

 この日、私には一つの出会いがあった。

「うわっ!」

 私が壁を乗り越えたところに丁度自転車に乗った人が突っ込んで来た。思わず立ち止まってしまったけれどぶつかる直前でうるさい音を立てながら自転車が止まる。

「……おぉ、セーフ」

 その人はほっとしたような様子でそう呟いて、それからこっちを父がつまらない話を繰り返すのに腹を立てている母と同じような表情で見た。その人は自転車を降りると見上げるぐらいの背の高さでひょっとすると父よりも大きいかもしれない。そんなその人は溜息交じりに口を開く。

「あんたさ、急に出て来るなよ、危ないだろ? しかもそんなところからさ」

 危ない? そんなところから? どういう事だろう。

 よくわからないで反応できずにいるとその人はどこか困ったようにして頬を掻いていた。

「えっと、俺の声聞こえてる?」

 もちろん聞こえているので笑顔を返す。父は冗談を言った時に聞こえているなら笑えとよく言っていた。

 私の笑みにはにかんだように笑ったその人は、しばらく私の事をじーっと、上から下まで見て回りそれから改めて口を開く。

「あー、っと。何でそこから出て来たんだ?」

 何で、と言われても。どう答えればいいんだろう。

「今な、お前がその塀を飛び越えて来ただろ?」

 それはその通りだ。頷いて答える。

「どうしてそんな事したんだ? 普通にやったら駄目ってことぐらいは分かるだろ?」

 駄目? どうして?

 思わず首を傾げるとその人は驚いて固まってしまった。そんなに不思議な事だろうか? ああいう壁は飛び越えるのが一番早いのに……。

 そう思っているとその人はとても優しい、偶に機嫌の良かった母が美味しい料理を作って食べさせてくれた時のように優しい口調で私に告げる。

「ああいう塀はな、乗り越えて通る為にあるわけじゃないんだよ。人がそこを通らないように建てられてるの。あんな風に飛び越えちゃ駄目なんだよ」

 えっと、つまり。

 私はいつものように壁を飛び越える真似を始める。その傍まで歩いて行って上に手をかけて……、本当ならこのまま壁を飛び越えて向こうに行くのだけど。今はそのまま手を戻して、そのまま腕を交差させてばってんを作る。

 父と母がジェスチャーをするとばたばた動いているのが面白いと言って笑ってくれたのを思い出す。懐かしいな。

「もしかして喋れないのか?」

 ちょっと想定外の質問。でもその通りなので頷く。だって私は喋っちゃいけないんだから。そんなことをしたら父も母も怒ってしまう。するとその人はどこか申し訳なさそうにそうか、と呟いて軽く咳ばらいをした。

「えっと、さっきの、塀を越えたら駄目なのかって聞いてたんだろ? そうだよ、駄目なんだよ」

 駄目、つまりやっちゃいけないってことだ。やっちゃいけなかったんだ!?

 父も母も言っていた、やるなと言った事は絶対にやるな、って。私はどうやら知らない間に間違ってしまったらしい。

 怒られないといけない、反省しなければいけない。怒声が私を襲うのをじっと待つ。

「……まあ、これから気を付けてけよ」

 しかしその人は声を荒げることも無くそう言った。顔を上げるとそこにはただ私を優しく見つめる瞳があった。

「何か急いでたのか? 何も無いなら家に帰った方が良いぞ。もう六時だし暗くなる前にな」

 呆けた気分だった、何を考えていたのかは覚えていない。ただその人の言う通りにしようと思って頷き、踵を返し、その場を去った。その途中、振り返って手を振ったのはどうしてだったんだろう。




 壁を超えることなく進むのはどこか窮屈だ。進むべき道も分からなくて、ただただ暗い道を彷徨い歩き、川を見つけた私はその傍に生えていた木に背中を預けて一夜を過ごした。いや、目が覚めた時には太陽が傾いていた。この日は随分と長く眠っていたのだ。

 起き上がると再び歩き出した。どっちへ行けばいいのかもわからないけれど歩き出さなければ目的地には決して辿り着けないから。

 この日の私にも一つの出会いがあった。

 我武者羅に進み続けていい加減何の成果も出ない事に不満を抱き始めていた頃。少し足を止めて次はどうしようかと考えていた。本当は早く進みたいのを我慢して、足元を通る蟻を踏み潰し逸る思いを抑えていた時のことだ。

「蟻さんが可哀想だよ」

 声を掛けて来た人がいた。

 その人は背がとても小さく、昨日あった人とはまるで正反対の見た目をしている。でもその瞳はどこか似ているように思えた。

「蟻ぐらいの小さな命だって思うかもしれないし、畑なんかでは害虫になる時もあるらしいけど……、それでもやっぱり無闇に殺しちゃうのは良くないよ」

 そしてその人はそう続けた。その言葉は私にはあまりに衝撃的だった。殺しちゃうのは良くない、そんな発想がある事が不思議でならなかったからだ。

「私は藍色。えっと、近くの中学に通っててね、怪しくないよ? あなたの名前は?」

 驚き固まる私に対してその人は更に名前を尋ねてきた。

 名前、名前、名前……。

 父も母も私の事を名前で呼ぶことはまず無かった。私自身もよく覚えていないぐらいの遠い遠い昔に呼ばれた記憶はあるが、すぐに気持ち悪いと言ってこんな名前を付けるんじゃなかったと言っていた気がする。

 私は手を曲げてその形を作ろうと努力したが、その子は私が話せないと気付くと一冊の手帳を差し出した。

「文字は書ける? これに書いていいよ」

 ……文字を書くのが何年ぶりか私は覚えていなかった。父と母が戯れに教えてくれた日があったのを思い出す。借りたペンを握り締め記憶の奥にあるその名を真っ白なページに書き込んでいく。

 天、使。

 たった二文字のその名前を。

「天使ちゃんって言うの?」

 その問いに頷く。するとその人は、

「へぇ~」

 と言って私の顔をじっと見つめた。そして笑顔を浮かべる。

「きっと天使みたいに綺麗だから天使ちゃんなんだね」

 それを聞いた時、不思議と私は笑みを浮かべていた。その人、藍色の笑顔に釣られたのだろうか、それとも何か他の理由があるのだろうか。私には、分からなかった。

 それから目的地へ向かう道が分からないことをどうにか伝えると二人での大冒険が始まる。が、結果的に私たちは公園に辿り着く事は出来なかった。藍色はごめんね、と何度も謝っていたが私はどうにか謝る必要は無いと伝えたかった。

 その時の私の気持ちを上手く言い表す事は出来ない。ただはっきり言えるのは、目的地に辿り着かなかったことはその時の私にはどうでも良かったという事だ。藍色と一緒に歩く時間は本当に……、本当にただ……、その時間がいつまでも続けばいいと、そう思っていた。

 しかしその願いが叶うことは無い。

 ただしそれが悪い事とは限らない。

「あ、お兄ちゃん」

 藍色が不意にそう言った。その向こうには人がいて、それは見た事のある人だった。

 つい昨日、壁を飛び越えてはいけないと教えてくれたその人だ。

 その人はどうやらお兄ちゃんという名前なようで公園に案内してくれると言う。藍色もお兄ちゃんも私に対してとても優しくて、少しだけ、本当に少しだけ、もしも二人が父と母だったら、なんて思ってしまったのは内緒だ。




 二人のおかげで目的の公園に辿り着くことが出来た。二人は暗くなるからと帰ってしまったけれど私はここでやることがある。ここで剣を抜いたのははっきりと覚えている。だからここに剣があるはずだ。私は暗くなっても構わず探し続けて、そして。

 私の剣を持った男が公園にやって来たのだ。

 土管の影に隠れた私はその男の行動をじっと見つめていた。どうすべきか悩んでいたからだ。初め、あの男を殺して剣を取れば良いと、そう思った。

 でも。

『無闇に殺しちゃうのは良くないよ』

 頭の中にそんな声が響くのだ。その声は剣を持っていた時に聞こえた声とは違う、優しく、温かみのある声。そんな藍色の声が今もはっきりと頭の中で繰り返され続けている。

 どうすべきか悩んでいる内に男は去って行ってしまった。追い掛けなければと半ば本能的に後を追い、そして何度か道を曲がったところで見失ってしまう。

 結局、この日、私の手元に剣は戻ってこなかった。再び木陰にて眠りに就く。




 朝、目が覚めるとお腹が空いていた。そう言えば随分食べていない気がする。家に帰ろうかとも思ったけれど残念ながらどこにあるのかさっぱりわからない。剣も取り戻さなければならないけれどご飯の方がきっと先だろう、そう思い何か食べ物を求めて彷徨い歩く。

 そして、私は、素晴らしい場所を見つけた。

 何とそこにはたくさんの食べ物が置いてあった。私は思わず笑みを浮かべて手近にあった赤いやつを手に取り食べる。

 うん、美味しい!

「ちょ、何やってんの!?」

 食べていたら手を掴まれてしまった。どうやら怒っているように見えるけれど店のだとか商品だとかあまり聞き慣れない単語を使うのでいまいちよくわからない。少なくともこの人はあまり愉快そうには見えない。もしかして何か悪いことをしてしまったのだろうか?

 それで困っていると不意に知っている声が聞こえた。

「おじさん、おはよう」

 それはお兄ちゃんの声だ。

「ん、あぁ。茉莉さんとこの、今忙しいから適当に見ててくれ」

 まつりさん? この人は相変わらずよくわからない事を言っている。この人はお兄ちゃんって名前なのに。

 とりあえずお兄ちゃんに赤い美味しいやつを勧めると残念ながら断られてしまった。父は美味しいものがあれば全部寄越せと言っていたのに……。本物の父とお兄ちゃんは違うなぁ。

「いや、その子だけど、知り合い……、みたいな感じで。何があったの?」

 お兄ちゃんはここの人としばらく話していたけれどやがて何かを差し出して赤いやつをたくさんもらっていた。……もしかしてあれと交換で貰えるものだったのかもしれない。きっとそうだ、だからここの人は怒っていたんだ。

 まずい事をしちゃったなぁ……。

 お兄ちゃんは私の手を引いてその場から離れた。近くにあった椅子に座って、それからしばらくお兄ちゃんは溜息をついたり天を仰いだり、何か色々と考えているように見えた。

「えー、昨日ぶり、天使ちゃん」

 ようやく話し出した、私は不思議と胸の内に嬉しさを感じながら頷く。

「お腹空いてるのか?」

 お腹はまだまだ空いている、頷くほかない。

「とりあえず苺食べな」

 そう言ってお兄ちゃんは赤いやつをこっちに渡した。何も考えずそれを受け取り、それからふと気付く。これはお兄ちゃんが何かと交換してもらっていたものだ。私はこれを受け取ってはいけないのではないだろうか?

 たぶんこれは食べようとしたら怒られる、そういう事に違いない。私はじっとお兄ちゃんの顔を見つめる。

「……どうかした?」

 しかしお兄ちゃんは困惑した表情を浮かべるだけだった。その様子に思わずこっちも困ってしまう。お兄ちゃんはしばらく何か考え込んで、それからやがて口を開いた。

「食べちゃダメなものだって気付いた?」

 その通りだ。

 この苺はお兄ちゃんの手に戻るだろう。でも変な事をして殴られるよりはずっといい。

「天使ちゃん。さっきみたいに食べ物を広げている所はね、お店なんだよ」

 しかし私の予想は外れ、お兄ちゃんは先程の場所について説明し始めた。お店、父と母がそんなものがあると話をしていた気もする。

 お兄ちゃんはさっきお店の人に渡していた紙を取り出した。

「こういうお金と交換で食べ物を売ってくれるところなんだ。天使ちゃんはお金を持ってなかった、だから食べちゃダメだったんだよね」

 やっぱりあれは私が食べちゃダメなものだったらしい。この紙、お金が無いとダメなんだ。

 ……そっか、難しいな。

 藍色やお兄ちゃんが言う事は今までの私には存在しなかったことばかりだ。新しいことを教えられる、そんな体験はもう随分と長くしてなかった気がする。家の中にずっといた時には無かった……。

 そんな風に思っていたらお兄ちゃんが赤いやつ、苺と言っていたっけ、を一つ手に取った。

「この苺は俺が買ったからね、もう俺の物なんだ、だから俺の好きにしていい」

 そう言って私の口に苺を押し込んだ。

「こういうのはお腹空いてる子の口に突っ込むのが一番いいってことね」

 たぶん、この時の私はしばらく止まっていたと思う。何が起こったのかわからず反応できなかったのだ。全く想像もしていなかったことが起きたのだから。ようやくお兄ちゃんが私に苺をくれたのだと理解するとそれを丸ごと噛み砕き飲み込んで行く。

 甘いとか、酸っぱいとか、苦いとか、そんな味……。そんな味は、あまり気にならなかった。

「……美味しい?」

 不安そうに尋ねるお兄ちゃんによくわかるよう大きく首を縦に振った。

 この時の私は言葉にすることも出来ない気持ちが胸に込み上げていた。私はそれをどう表現していいのかもわからない。どうすればいいのだろう?

 それは教えられたわけでは無かったけれど、不思議と手がそういう風に動いた。目の前の苺を手に取りお兄ちゃんに手渡すように。

 きょとんとして不思議そうに見つめたお兄ちゃんはそれを受け取ると、

「はい口開けてー」

 とまた私に返そうとするから思わず頬が膨れそうだった。

「……俺が食べていいの?」

 それ以外にあるはずが無い。苺がお兄ちゃんの口の中へ消えて行く。

「旨いなこの苺」

 その言葉に思わず笑みが零れた。美味しい食べ物を人と一緒に分け合うのはとても、とても……、良いことだ。お腹が空いているはずなのに、不思議ともっと食べて欲しいと思ってしまう。

 この気持ちを何と呼べばいいのだろう?

 この後はお兄ちゃんと公園に行き、なんだかお兄ちゃんの知り合いの人が来てわたわたとしている内に別れてしまった。ちょっとだけ残念に思いながら私は歩く。

 剣を探さなければならないのを忘れて眠りに就く。この日、不思議とそんな事は綺麗さっぱりと忘れていた。




 目が覚めてからずっと不思議な気分だった。やらなければならないことは何も進んでいないはずなのに不思議と満たされたような感覚。

 夢の中で私は藍色とお兄ちゃんと一緒に並んで歩いていた。その光景が瞼の裏に残っているように、朝の陽射しの中にその幻があるように、手を伸ばせばその幻に触れられると錯覚し……。

 そんな幻を追い続けていつの間にか時間が過ぎていた。朝の陽射しはいつの間にか夕焼けに変わってもおかしくないほどに傾きを変えている。唐突に焦燥感に駆られ動き出すも昨日どこを通ってここに辿り着いたのかはわからず、公園がどこにあるのかもわからなかい。まるで一昨日のような状況に頭が痛くなりそうだったけれどそれでも歩くのは止めない。一度は辿り着いたのだからきっと何とかなるはずだ。

 そしてその希望は意外な形で叶えられた。

「あ~! 天使ちゃんだ!」

 藍色がいた。私を見つけるなり声を上げて駆け寄って来たのだ。

「心配したんだよ~。無事でよかった」

 私は藍色の言葉の意味がわからず首を傾げる。

「あ、大丈夫大丈夫。こっちの話だからね。天使ちゃん今日は何してるの?」

 剣を探していたけれど、藍色に会えたことでそれは頭の中から吹き飛んでいた。私は藍色の手を取って笑みを浮かべる。

「ん~? よくわからないけど……、楽しそうでいいね」

 藍色も笑みを浮かべて二人で手を取りゆらゆらと揺らす。

「ねえねえ、天使ちゃんは今から時間はある?」

 私はその問いに迷いなく頷いた。

「じゃあ一緒に遊ぼう。お腹空いてる? とりあえず商店街に行こうよ。美味しいコロッケを売ってるんだよ」

 藍色に言われて私はお腹が空いているのを思い出した。

「折角だから競争……、天使ちゃん足速いから置いてかれちゃうか。ゆっくり歩いて行く?」

 私は少し考えてからしゃがみ込み手を前に。

「……お姫様抱っこ?」

 父が廊下で寝ていると母にベッドに連れて行けとよく言われたものだ。それに比べれば藍色は小さくて軽いだろう。

「大丈夫? 藍色重いかもよ?」

 不安そうな顔をしながらも藍色は私に身体を預けてくれた。腕にかかる重みは想像以上に軽く、やっぱり藍色は小さいなと感想が浮かぶ。

「わ、わ、凄い凄い!」

 藍色が私の首に手を回して笑う。すぐ傍で見るその笑みはとても楽しそうで私も思わず微笑んだ。

「じゃあ行こう! 道は分かる?」

 当然わからない。

「なら藍色が道を教えるよ。まずは直進だー!」

 その声に従って走り出す。

「おおおぉ! 速い速~い!」

 道を駆け抜け、驚いた様子の人の横を通り過ぎ、のんびり走る自転車を置いて行く。その度に声を上げて笑う藍色の姿を見て私はどこまででも走っていたいと思っていた。

 残念ながら少しすれば目的地にあっさり辿り着いてしまったけれど。

「すごいね天使ちゃん。足も速くて力持ちだ」

 あれぐらいは普通だと思う。藍色ぐらい小さい子を抱えて走れないなら父を運ぶことも出来ないよ。

「あ、そうだ。コロッケコロッケ。あっちのお肉屋さんがね、美味しいのを売ってるんだよ」

 藍色についてお肉屋さんへ。そこではたくさんの赤いお肉を売っていて、その中に茶色いコロッケなるものがあった。奥からはぱちぱちと何かが弾けるような音が聞こえている。

「ちょっと高いから半分こしようか」

 藍色がお肉屋さんの人と話をするとその人は奥へ行ってしまった。しかしすぐに戻って来て手に茶色いやつを持っていた。あれがコロッケなんだ。

「はいよー、お待たせ。350円ね」

 藍色が何かを、たぶんお金というやつを出そうとしたのだけど、

「1000円出すから二個追加してくれ」

 後ろからそんな声がした。

「お兄ちゃん!? あれ、何でここに?」

 そこにはお兄ちゃんがいた。そのままお兄ちゃんがお金をお肉屋さんに渡してコロッケを三つ受け取る。

 それから私たちは三人で並んで近くの椅子に座ってコロッケを食べ始める。手に持っているとちょっと熱い。

「揚げたての熱々だ~」

 しかし藍色は熱いのが良いみたいでにこにこと笑みを浮かべながらそれを頬張る。

「ん~、やっぱりコロッケはここのが一番だね」

「だな、間違いない」

 はしゃいでいる二人の様子を見ればこれが美味しいものだとすぐにわかる。だから私も早速食べる事にした。丸いそれを一気に頬張る。熱い、けど、外がサクサクしていて中のところも美味しい。思わず頬も緩む美味しさだ。ぱくぱくぱくと食べ進めていると手に持っていたそれは気が付けばあっさり無くなってしまった。

「半分やるよ。俺の奢りだ」

 お兄ちゃんは自分が食べていたコロッケを半分割って私にくれた。一瞬、それを受け取るべきか悩んだけれど食欲には敵わず貰った半分もあっさり食べ切ってしまう。藍色はとてもゆっくり食べていて私があんなに食べたのにまだだいぶ残っている。その姿を愛おしそうに見つめるお兄ちゃんの姿が凄く印象的だった。

 コロッケを食べ終わりお兄ちゃんが藍色と私がここに来た経緯を聞いたりしていたのだけれど、その中で不意に私に質問が飛んで来た。

「天使ちゃんはスマホ持ってるのか?」

 スマホ……、スマホ? 言葉の意味が分からず首を傾げる。そうしていると藍色がお兄ちゃんから変な板みたいなのを受け取る。父と母がこんなものを持っていた気もするけれど……、どうやって使うのかはさっぱりわからない。二人にもそれが伝わったようで困ったようにしている。

「……天使ちゃんってどの辺りに住んでるんだ?」

 不意に飛んで来た質問、どの辺り……。どこなんだろう? 外に来てからどうやって来たかなんて覚えてないや。

 お兄ちゃんは少し悩んでから急に名案を思い付いたかのように声を上げた。

「あー、じゃあさ、こうしよう。藍色はさ、中学に通ってるんだけど。暇な時はその帰り道で待ってやっててくれよ。それで一緒に遊んでやってくれ」

 中学、確か藍色と初めて会った時にそんなことを言っていた気がする。そこにいれば藍色に会えるという事だろうか? それで一緒に遊んでくれって……、それはとても……、良いな。

「なっ?」

 お兄ちゃんの手が私の頭を撫でる。暖かくて、気持ちいい。

「じゃあ俺は先に帰るぞ。折角買った食材が痛んじゃうからな」

 言いながらお兄ちゃんは立ち上がる。思わず私の手が伸びた。

「……天使ちゃん?」

 私は、私の手が伸びた理由は分からなかった。

「お兄ちゃんも一緒に遊ぼうって」

 でも藍色が私の心を掬い取ってくれる。そうだ、私は藍色とも、お兄ちゃんとも、一緒にいたい。

 結局お兄ちゃんは去って行ってしまったけれど、次に会った時はまた一緒に遊ぼうと言ってくれた。私と藍色はそれから商店街という名のその場を歩いて見て回った。藍色はお兄ちゃんには内緒といいながらちょっとだけおやつも買ってくれて、最後は暗くなるから帰ると言ってどこかへ行ってしまった。

 別れるのは嫌だったけれど、仕方ない事なのだと思った。だって藍色は家に帰るのだから。私も家に帰るのだろうか? 私の家はどこにあるのだろうか?

 ……私は家に帰りたいのだろうか?

 暗闇の中、私は公園にいた。夜通し考え事をしながらふらふらと歩いていたら辿り着いてしまった。ここに、剣を持ったあの人は来るだろうか? 剣を取り戻さなければならない、それは分かっている、と思う。

 でも今の私はそれほど剣を取り戻さないといけないなんて思ってないのも分かっていた。土管の裏手に座り込み、私は眠りに就く。夢の中で藍色やお兄ちゃんに会えるように祈っていた。




 目が覚めると辺りは暗く日が沈んだばかりに見える。どうやら日中、ずっと眠っていたらしい。辺りはやたら騒がしく何が起こっているのだろうと土管から顔を覗かせる。

 銀色の光が目に映った。

 ひどくゆっくりと宙を舞うそれは私が取り戻そうと思っていた剣の姿をしている。やっぱりここにいたら戻って来たんだ。

 剣を取り戻さないと。

 本当にあれは必要なの?

 殺しをするには必要だ。

 藍色はそれを否定していたね。

 たかが数日前に会っただけの人間の言う事だ。

 父や母の言う事は正しかったの?

 あいつらの言う事は信じるのか?

 それは……。

 お前をずっと生かして来たのはお前の父と母だ。殺しは尊く、殺しこそが正しさであり、殺しこそが人の道だ。

 さあ、剣を取れ。

 私は導かれるように剣をこの手に取る。

「キヒ」

  殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ

 頭の中に響く大合唱に従うように私は傍にいた奇妙な生き物を殺した。そしてもう一人、近くにいた人間を見つけそれに向けて剣を振るう。

 ……あ、お兄ちゃんだ。

 剣は宙を切った。私が切る直前にお兄ちゃんは空へ飛んで行った。段々と離れて行くその姿をじっと見つめる。

 お兄ちゃんはしばらく私を見てその手を伸ばしかけていた、けれどやがて目を逸らした。

 ほらな、お前は殺すことでしか道を歩むことは出来ないのだ。視線の先に広がる全てを殺せ! 殺せ! 殺せ!

 頭の中の声は歩みを進めもっと多くの命を殺せと騒ぎ立てる。でも私は動けなかった。

 私は、父と母のような、殺し屋に、なるのだ、ろうか?

 その為には、まず……。

「キヒ」

 ……まずは、私自身の思い出を殺す必要があるのだろう。藍色と会ったあの時から今この時までの本当に僅かな時間を、それまでの十何年家にいた時よりも大切なこの時間を、まずは殺さなければならない。その最後を懐かしむように、父と母を殺す時にもしなかったのに、本当に僅かにしか無いはずなのに、その思い出を何度も何度も時間をかけて思い返す。

 ……この時間が永遠であれば良かったのに。




 時間が、過ぎて行く。しかしまだ私の思い出は残っている。

 視界が暗くなるのを感じた。見上げると空を瞬く星が黒く塗りつぶされたように消えていた。まるでたくさんの生き物が空を覆ってしまったかのように。

 その中に一人、降りて来る影があった。


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