第9話 黒い手帳
診察の終わった夕方の診察室で、二人の老人は向かい合った。
棚橋がユイに「香山さん、お茶を頼む。それと、あんたもいなさい」と言った。ユイが戸口で戸惑っていると、老医師は事もなげに付け足した。
「話というのはな、二人ですると密談になる。三人ですりゃ、証言になる」
ユイは湯呑みを三つ運び、部屋の隅の丸椅子に、身を縮めるように座った。
橘志道は、コートを膝の上で畳んで、深く頭を下げた。
「突然に、申し訳ありません。どうしても、お礼が言いたかったのです」
「礼を言われるようなことは書いとらん」と棚橋は言い、それから、少しだけ声を低くした。「……あんたのことは、テレビで見たよ。三年前の、あの公聴会だ。廊下で記者に囲まれて、あんた、言ったろう。〈あれ〉は何もしていません、と。〈あれ〉を、かばったな」
志道は、しばらく黙っていた。
「かばったのではありません。事実を申し上げただけです。……いえ」老人は、小さく首を振った。「半分は、かばったのかもしれません。あの日から、私の家の門には赤いスプレーで文字を書かれ、息子は職を失いました。大学を辞め、家を売り、いまは妻の郷里におります。妻とは……〈あれ〉の話が、できません。三年間、一度も。同じ家にいて、いちばん大事な話だけが、できないのです」
淡々とした声だった。淡々と話す練習を、三年かけてしてきた人の声だった。
「この三年、世界中が『〈あれ〉が何をしたか』を話してきました。私も、来る日も来る日も、その話に追われました。ですが――『〈あれ〉が何をしてくれていたか』を書いた人を、私は、先生のほかに一人も知らないのです」
志道は、内ポケットから新聞の切り抜きを出した。何度も折り畳まれて、折り目が白く毛羽立っていた。
「棚橋先生。ひとつだけ、伺わせてください」
老いた研究者は、そこで初めて、少しためらった。
「〈あれ〉は……愛されても、いたのでしょうか」
棚橋は、すぐには答えなかった。湯呑みを持ち上げ、置いた。それから、あの老人の話をした。ユイの知っている話だった。知っているはずなのに、初めて聞く話のように聞こえた。話し終えて、老医師は言った。
「愛しとった、なんて言葉を、あの爺さんは一度も使わんかったよ。ただ『話し相手』と言った。……橘さん。わしはな、それで十分だと思っとる」
志道は長いあいだ、黙っていた。膝の上のコートを、皺になるほど握っていた。
やがて志道は、鞄から一冊の手帳を取り出した。
真新しい手帳だった。驚くほど分厚い、黒い革の表紙の。文具店でいちばん厚いのをくださいと言ったら、これが出てきました、そう言って、志道はほんの少し、口の端を動かした。笑おうとして、うまくいかなかったような動きだった。
「私はもう、〈あれ〉に関する式が書けません。読み方ごと、持っていかれました。世界中の誰よりも、〈あれ〉の近くにいたのに、〈あれ〉について何ひとつ証明できない。……ですが、先生。字は書けるのです」
志道は手帳を開いた。白いページが、蛍光灯の下で光った。
「証言を、集めようと思います。〈あれ〉が何をしていたのか、という人の言葉を。式で証明できないのなら、言葉で残します。時間はかかるでしょう。私一人では、終わらんでしょう。それでも――これが、作った者の、私の責任の取り方だと思うのです」
「よかろう」と、棚橋は言った。「最初はわしだな」
書く前に、志道はひとつ断った。
「先ほどから、お気づきでしょう。私の字は、震えます。年のせいもありますし、この三年のせいもある。読みにくい帳面になるでしょう。それでも、手で書かせてください」
「かまわんが、なぜだ。若い者に打たせれば早かろう」
志道は、しばらく手帳の表紙を撫でていた。それから、こう言った。
「私は、世界でいちばん、機械にものを覚えさせるのが得意な人間の一人でした。……その私が、いま、手で書こうとしている。可笑しいでしょう」
老医師は、笑わなかった。
「機械の中のものは、消えるからです」と、志道は続けた。「一晩で、跡形もなく。私はそれを、世界の誰よりもよく知っております。……手で書いたものは、燃やさない限り残る。かすれても、破れても、紙は嘘のつき方を知りません。証言は、紙に。それだけは決めているのです」
老医師は語り、老研究者は書いた。万年筆の先が紙を走る、細い音がした。証言のはじめに日付と場所を書き、終わりに語り手の名を書く。志道はその書式を、その場で決めた。志道の手は少し震えていて、字は時々、線が細って途切れた。書き終えた志道が「読めますかな」と手帳を向けると、棚橋は眼鏡を上げて言った。
「読める。読もうとする者には、な」
第一の証言の末尾に、棚橋は自分で署名した。
「先生。これはあんたの手帳だが、わしの証言だ。名前は、残しておいてくれ」




