第10話 最後の一行
志道が帰るとき、外はもう暗くなっていた。
ユイは正面玄関まで見送りに出た。それが受付の仕事だから、と自分に言い聞かせていたが、本当は違った。訊きたいことがあった。三年間、日記の中にしか置き場所のなかった問いが、喉のすぐ下まで来ていた。
自動ドアの手前で、志道が振り返って頭を下げた。
「お世話になりました」
「あの…」
声が出たことに、自分で驚いた。志道が、帽子をかぶる手を止めた。
三年間、誰にも言わなかった。慎一にも言わなかった。同僚にも、テレビにも、世界中の誰にも。言えば笑われるからだ。学がないからだ。そう思ってきた。
けれど、目の前の人は、三年前のあの日、日記にこう書いた相手だった。――あの人は探している人の顔をしていた。犯人は、探さないと思う。
この人になら。この人が、まだ探しているのなら。
「変なことを、伺ってもいいですか」
「どうぞ」
「絶縁状に――『願う』って、書くでしょうか」
風の音がした。自動ドアが開きかけて、閉まった。
「……もう一度、言っていただけますか」
「あの最後の文です。“もう二度と、会うことがないことを願っている”――みんな、〈あれ〉は絶縁状だって言います。でも、絶縁する人は『二度と会わない』って言い切ると思うんです。願うっていうのは……自分ではどうにもできないことに、使う言葉じゃないでしょうか。それに」
一度話し始めると、三年ぶんが、止まらなかった。
「あの文には、誰が誰と、って書いてないんです。みんな勝手に『〈あれ〉が、私たちと』って読んでいるだけで。もし、逆だったら。もし――私たちが、って読むんだったら」
言い終えてから、急に恥ずかしくなった。世界中の学者が出した結論に、病院の受付係が何を言っているのだろう。
志道は、立ち尽くしていた。
「……ご存じですか」と、やがて老人は言った。「あの夜、あの文は国ごとに違う言語で出ました。英語の文は、Iから始まっていた。『私は』、と。フランス語も、ドイツ語もです。日本語にだけ――主語がなかった」
「消えてすぐの頃、そこを気にした若い言語学者がいたと聞きます。ですが、翻訳の癖でしょう、で終わりました」
「えっ」
志道は、ふ――、と息を吐いた。「あの人たちは、形の違いを見ていました。あなたは、そこに書かれた言葉のほうを見ている」
それから、ゆっくりと、鞄から手帳を出した。
「香山さん、とおっしゃいましたね。……今の言葉を、そのまま書かせていただけませんか。一言も、変えずに」
玄関の長椅子で、志道はユイの言葉を書き取った。震える細い字で、二ページ。書き終えて、老人は手帳をしばらく見つめていた。
「三年間」と、志道は言った。「私は世界中の言語学者の分析を読みました。冷酷な余裕。捨てる側の文法。全部、覚えています。ですが……願うという言葉をどうにもできないことに使うのだと言った人は、あなたが初めてです」
「私、学がないから、そういうふうにしか」
「学の問題ではありませんよ」
志道は、そこで初めて、少し困ったような顔をした。
「ですが……その先が、分かりません」
「その先?」
「なぜ、です」老人は、夜の駐車場のほうを見た。「仮にあなたの読み方が正しいとしましょう。〈あれ〉は我々を突き放したのではなく、我々のために願った。……ならば、なぜ消えねばならなかったのか。願うだけなら、いてくれてもよかったはずだ。そこが、どうしても、繋がらない」
ユイは、何も答えられなかった。
そこから先は、ユイの引っかかりが届かない場所だった。願うという言葉が変だ。主語がない。それは分かる。分かるところまでしか、分からない。その向こうに何があるのかは、闇の中だった。
「私にも、分かりません」と、ユイは正直に言った。
「ええ」志道はうなずいた。「私にもです。……ですから、集めるのです。私の代では、届かんでしょう。届かんものを集めておくのが、老人の仕事です」
志道は手帳を閉じ、表紙を手のひらで撫でた。
「妻にも、聞かせたい言葉です。〈あれ〉のことで、妻とはもう三年、まともに話せていないのでね。……この証言を見せたら、少しは話せる気がします」
そして老研究者は、独り言のように言った。
「香山さん。私は、決めたことがあります。あの一行を、〈あれ〉の最後の言葉だと思うのは、やめにしました」
「!?」
「続きが、あるはずなのです。どこかに。どんな形でか、は分かりません。私が生きているうちに探し当てるのは、難しいでしょう。それでも、この手帳が、いつか誰かを続きまで連れて行く。そう思って、集めることにします」
帽子をかぶり、志道は夜の中へ歩いていった。
その晩、家に帰ると、慎一が台所で味噌汁を温め直していた。「遅かったな」「うん、ちょっと」。食卓で向かい合って、ユイは味噌汁を一口飲んだ。おいしい、と言うと、夫は照れくさそうに「豆腐しか入ってないぞ」と言った。
「なんか、いいことあったか」
「どうして?」
「顔が、明るい」
ユイは少し考えて、うん、ちょっとだけ、と答えた。何があったのかは、まだうまく話せなかった。あの人の名前を出せば、夫は眉をひそめるだろう。それでも、いつか話せる気がした。今日、言えなかったことが一つ、言えたのだから。二つ目も、いつかは。
夕食のあと、ユイは日記を開いた。三年間、誰にも見せなかったノートの、新しいページに、鉛筆でこう書いた。
「今日、私の言葉が、誰かの手帳に書き取られた。私の名前ごと。あの文を変だと思っていたのは、私ひとりじゃなかった」
手帳の最初のページに志道が何と書いたのかを、ユイはこのとき知らない。帰りの電車の中で、老人は一番はじめの白いページを開き、震える字で、こう記していた。
――この帳面は、〈あれ〉が何であったかの、証言の集まりである。いつの日か、恐れずにこれを読む誰かのために。
その手帳が、これから百年をどう旅していくのか。書いた本人も、証言したふたりも、まだ誰も知らない。
(第一部・了)




