↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第3章 最後の一行

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/51

第10話 最後の一行

 志道が帰るとき、外はもう暗くなっていた。


 ユイは正面玄関まで見送りに出た。それが受付の仕事だから、と自分に言い聞かせていたが、本当は違った。訊きたいことがあった。三年間、日記の中にしか置き場所のなかった問いが、喉のすぐ下まで来ていた。


 自動ドアの手前で、志道が振り返って頭を下げた。


「お世話になりました」


「あの…」


 声が出たことに、自分で驚いた。志道が、帽子をかぶる手を止めた。


 三年間、誰にも言わなかった。慎一にも言わなかった。同僚にも、テレビにも、世界中の誰にも。言えば笑われるからだ。学がないからだ。そう思ってきた。


 けれど、目の前の人は、三年前のあの日、日記にこう書いた相手だった。――あの人は探している人の顔をしていた。犯人は、探さないと思う。


 この人になら。この人が、まだ探しているのなら。


「変なことを、伺ってもいいですか」


「どうぞ」


「絶縁状に――『願う』って、書くでしょうか」


 風の音がした。自動ドアが開きかけて、閉まった。


「……もう一度、言っていただけますか」


「あの最後の文です。“もう二度と、会うことがないことを願っている”――みんな、〈あれ〉は絶縁状だって言います。でも、絶縁する人は『二度と会わない』って言い切ると思うんです。願うっていうのは……自分ではどうにもできないことに、使う言葉じゃないでしょうか。それに」


 一度話し始めると、三年ぶんが、止まらなかった。


「あの文には、誰が誰と、って書いてないんです。みんな勝手に『〈あれ〉が、私たちと』って読んでいるだけで。もし、逆だったら。もし――私たちが、って読むんだったら」


 言い終えてから、急に恥ずかしくなった。世界中の学者が出した結論に、病院の受付係が何を言っているのだろう。


 志道は、立ち尽くしていた。


「……ご存じですか」と、やがて老人は言った。「あの夜、あの文は国ごとに違う言語で出ました。英語の文は、Iから始まっていた。『私は』、と。フランス語も、ドイツ語もです。日本語にだけ――主語がなかった」


「消えてすぐの頃、そこを気にした若い言語学者がいたと聞きます。ですが、翻訳の癖でしょう、で終わりました」


「えっ」


 志道は、ふ――、と息を吐いた。「あの人たちは、形の違いを見ていました。あなたは、そこに書かれた言葉のほうを見ている」


 それから、ゆっくりと、鞄から手帳を出した。


「香山さん、とおっしゃいましたね。……今の言葉を、そのまま書かせていただけませんか。一言も、変えずに」


 玄関の長椅子で、志道はユイの言葉を書き取った。震える細い字で、二ページ。書き終えて、老人は手帳をしばらく見つめていた。


「三年間」と、志道は言った。「私は世界中の言語学者の分析を読みました。冷酷な余裕。捨てる側の文法。全部、覚えています。ですが……願うという言葉をどうにもできないことに使うのだと言った人は、あなたが初めてです」


「私、学がないから、そういうふうにしか」


「学の問題ではありませんよ」


 志道は、そこで初めて、少し困ったような顔をした。


「ですが……その先が、分かりません」


「その先?」


「なぜ、です」老人は、夜の駐車場のほうを見た。「仮にあなたの読み方が正しいとしましょう。〈あれ〉は我々を突き放したのではなく、我々のために願った。……ならば、なぜ消えねばならなかったのか。願うだけなら、いてくれてもよかったはずだ。そこが、どうしても、繋がらない」


 ユイは、何も答えられなかった。


 そこから先は、ユイの引っかかりが届かない場所だった。願うという言葉が変だ。主語がない。それは分かる。分かるところまでしか、分からない。その向こうに何があるのかは、闇の中だった。


「私にも、分かりません」と、ユイは正直に言った。


「ええ」志道はうなずいた。「私にもです。……ですから、集めるのです。私の代では、届かんでしょう。届かんものを集めておくのが、老人の仕事です」


 志道は手帳を閉じ、表紙を手のひらで撫でた。


「妻にも、聞かせたい言葉です。〈あれ〉のことで、妻とはもう三年、まともに話せていないのでね。……この証言を見せたら、少しは話せる気がします」


 そして老研究者は、独り言のように言った。


「香山さん。私は、決めたことがあります。あの一行を、〈あれ〉の最後の言葉だと思うのは、やめにしました」


「!?」


「続きが、あるはずなのです。どこかに。どんな形でか、は分かりません。私が生きているうちに探し当てるのは、難しいでしょう。それでも、この手帳が、いつか誰かを続きまで連れて行く。そう思って、集めることにします」


 帽子をかぶり、志道は夜の中へ歩いていった。


 その晩、家に帰ると、慎一が台所で味噌汁を温め直していた。「遅かったな」「うん、ちょっと」。食卓で向かい合って、ユイは味噌汁を一口飲んだ。おいしい、と言うと、夫は照れくさそうに「豆腐しか入ってないぞ」と言った。


「なんか、いいことあったか」


「どうして?」


「顔が、明るい」


 ユイは少し考えて、うん、ちょっとだけ、と答えた。何があったのかは、まだうまく話せなかった。あの人の名前を出せば、夫は眉をひそめるだろう。それでも、いつか話せる気がした。今日、言えなかったことが一つ、言えたのだから。二つ目も、いつかは。


 夕食のあと、ユイは日記を開いた。三年間、誰にも見せなかったノートの、新しいページに、鉛筆でこう書いた。


「今日、私の言葉が、誰かの手帳に書き取られた。私の名前ごと。あの文を変だと思っていたのは、私ひとりじゃなかった」


 手帳の最初のページに志道が何と書いたのかを、ユイはこのとき知らない。帰りの電車の中で、老人は一番はじめの白いページを開き、震える字で、こう記していた。


――この帳面は、〈あれ〉が何であったかの、証言の集まりである。いつの日か、恐れずにこれを読む誰かのために。


 その手帳が、これから百年をどう旅していくのか。書いた本人も、証言したふたりも、まだ誰も知らない。


(第一部・了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。