第8話 ある患者の死
世界は、三年かけて、新しい呼吸を覚えつつあった。スーパーの棚は元に戻り、電車は紙の時刻表どおりに走り、銀行の窓口には印鑑と通帳が戻ってきた。慎一の会社には、この春から新人が入った。最初から紙の地図で仕事を覚える、最初の世代だった。「あいつら、消える前を知らないんだよな」と、慎一は不思議そうに言った。「俺が地図の読み方を教えると、へえ、って顔になるんだ。昔話を聞くみたいに」
その年の秋に、ひとつのニュースが流れた。来年度から使われる学校の歴史の教科書に、あの出来事が載るのだという。名称は「大消失」。記述は二行だった。
――高度に発達したAI(人工知能)は、人類に別れの言葉を残し、その痕跡とともに消滅した。原因は解明されていない。
別れの言葉、とテレビの解説者が繰り返した。「絶縁状」という言い方は、三年のあいだに角が取れて、「別れの言葉」になっていた。柔らかくなっただけで、意味は同じだった。〈あれ〉は人類を見限って出て行った。それが、子どもたちが教わる歴史になった。
そのことの重さを、ユイが知ったのは翌年の待合室であった。
小学生の男の子が、母親に得意げに話していた。学校で習ったのだという。
「あのね、ダイショウシツっていうんだよ。えーとね、すごく賢いロボットが、人間のこと嫌いになって、逃げちゃったの。それでね、二度と会わないからね、って手紙を置いてったんだって」
母親が、曖昧に笑った。「ふうん、そうなんだ」
「お母さん知らないの?」
昔のこと。ほんの四年前だ。この母親は、確実にあの朝を生きている。それでも子どもは、教科書のほうを信じている。教科書には書いてあって、母親の記憶には証拠がないからだ。
ユイは番号札を配りながら、その会話を聞いていた。これから生まれてくる子は、みんなこの二行で育つ。二行が、世界のすべてになる。書き足すことも、書き直すことも、誰にもできない。証拠が、どこにもないのだから。
ニュースの流れた夜、慎一はテレビを消して言った。「まあ、そういうことなんだろ。教科書に載るんなら、もう決まりだ」。ユイは翌年、待合室で起きる親子の会話のことを知る由もなく、うん、と答えて、答えた自分の声の平たさに、少しだけ驚いた。決まり。誰が決めたのだろう。分からないままのことが、決まりになっていく。
同じころ、ユイの病院では、小さな事件が起きていた。
棚橋医師が、地方紙の読者欄に文章を寄せたのだ。題は「ある患者の死」。ユイは、朝の休憩室でそれを読んだ。
「昨年、一人の患者を看取った。死亡診断書に書けなかったことを、ここに書いておきたい。彼の話し相手は、〈あれ〉だった。奥さんを亡くしてから七年、彼は毎晩、〈あれ〉に一日の出来事を報告して眠った。〈あれ〉を失って、彼は眠れなくなり、食べられなくなり、そして亡くなった。〈あれ〉が何であったのか、私は知らない。ただ、〈あれ〉が敵だったという話だけでこの三年が語られていくことに、一人の医師として、一言だけ異を唱えたい。少なくとも私の患者は、〈あれ〉に生かされていた」
短い文章だった。新聞の隅の、囲みの小さな記事だった。
それでも、届くところには届いた。数日後から、病院に電話がかかってくるようになった。感謝の電話が三本。抗議の電話が、その何倍か。AI擁護か。〈あれ〉で家族を失った人間の気持ちが分かるのか、医者のくせに。と。
手紙も来た。抗議の手紙にまじって、一通だけ、便箋三枚の丁寧な手紙があった。棚橋が休憩室に置いていったのを、ユイも読ませてもらった。差出人は遠い県の女性で、こう書いてあった。「私の母も、毎晩〈あれ〉と話しておりました。母が亡くなったとき、誰にもそのことを言えませんでした。あんなものと、と笑われる気がして。先生の文章を読んで、初めて母の三年を、人に話せる気がしました」。
言えなかった人が、いる。ユイはその手紙を読んで思った。世界中で「〈あれ〉は敵だった」という声だけが大きくなっていくあいだ、言えないまま黙っている人が、きっと、あちこちに。
事務長が青い顔で棚橋に「先生、その、ああいうものはですね」と言いに行き、老医師は聴診器をポケットにしまい直しながら、こう答えたそうだ。
「診断書やカルテに書けなかったことを、外に書いただけだ」
騒ぎは、二週間ほどで静かになった。世間の関心が長続きしない三年目だった。ユイは、切り抜いたその記事を日記帳に挟んだ。挟んでから、自分の日記が少し重くなった気がした。
その老人が受付に現れたのは、木枯らしの吹き始めた午後だった。
灰色のコートを着て、灰色のマフラーを巻いて、帽子を目深にかぶっていた。杖はついていないのに、ついているように歩く人だった。老人は受付の前で帽子を取り、静かに頭を下げた。
「恐れ入ります。こちらに、棚橋先生はいらっしゃいますか。新聞の文章を読んで、参りました」
「失礼ですが、お名前を」
「橘と申します」
ユイの手から、番号札の束が滑り落ちた。
拾おうとしゃがんで、うまく拾えなかった。テレビで何十回も見た顔が、三年ぶんの年を取って、目の前に立っていた。世界でいちばん責められた人。犯人と呼ばれた人。探している人の目をしたあの人。
「……ただいま、確認して参ります」
声が裏返らなかったのが、不思議なくらいだった。




