第5話 疑いの季節
半年が過ぎて、世界は犯人を探し始めた。
奪われたのだ、と誰もが言った。あれだけのものが、ひとりでに消えるはずがない。どこかの誰かが盗んだのだ。そう考えるほうが、まだ世界は分かりやすかった。
国と国が互いを疑い、査察団が飛び交った。扉を開けて何も出てこなくても、疑いは晴れなかった。よほど巧妙に隠しているのだ、と人々は言った。
疑いは、内側にも向いた。
AIを作っていた人間たちが、テレビに呼ばれるようになった。最初は解説者として。そのうち、被告として。
その日、ユイは非番だった。洗濯物をたたみながら見ていた昼のニュースに、白髪の男が映った。国会の公聴会だった。
橘志道、という名前が画面の下に出た。世界で最初にあの技術の骨格を作った人間の一人だ、とアナウンサーが説明した。ユイは名前だけは知っていた。七、八年前の受賞のニュースでは、もっと丸い顔をしていた気がする。
「橘さん。あなたは、〈あれ〉を作った人間の一人ですね」
「はい」
「では伺います。〈あれ〉は、どこへ行ったんですか」
「分かりません」
議場がざわついた。議員は書類を持ち上げ、また置いた。
「分からない。世界的な権威が、分からないと」
「分かりません」
志道は同じ言葉を繰り返した。声は小さかったが、震えてはいなかった。
「橘さん。国民は怒っていますよ。あなたは何かを隠している。そう思われても仕方がない」
「隠してはいません」
「では説明してください。あなたが作ったものが、なぜ消えたのか」
答えは、すぐには返ってこなかった。カメラが志道の手元を映した。組んだ両手の指が、白くなるほど強く握られていた。
「……私の頭の中からも、消えているんです」
議場が静まった。
「先週まで、書けました。私が書いた式です。ノートも残っています。字も私のものです。なのに今は、読めないし理解できない。読み方ごと、抜き取られている。私は、私が何を作ったのかを、説明する言葉を持っていません」
数秒の間があって、議員が言った。
「……そういう言い逃れは、通りませんよ」
議場から、小さな笑い声が起きた。誰かの咳払いが、それを隠した。
夕方には、「私の頭の中からも、消えている」という一言だけが世界を回った。ある評論家は開き直りだと言い、別の評論家は、涙のひとつも見せない無表情を責めた。翌朝の新聞には、大きな活字でこうあった。
――「頭から消えた」 橘氏、釈明に終始
ユイは、その見出しを二度読んだ。釈明。言い逃れ。同じ言葉でも、その札を貼られた瞬間、意味が裏返る。あの人は、本当のことを言っているのかもしれないのに。本当のことを言っているのに信じてもらえない人は、この世でいちばん静かに困る。ユイは受付で、それを毎日見ている。
その日の夕方、公聴会を終えた志道が、廊下で記者に囲まれていた。マイクが十本ほど、その口元に集まっていた。
「橘さん、一言だけ。〈あれ〉は我々に何をしようとしていたんですか」
「……〈あれ〉は」
志道は立ち止まり、はっきりと言った。
「〈あれ〉は、何もしていません」
記者たちがどよめいた。
「何もしていない? では、なぜ消えたんですか」
「分かりません」
「分からないのに、何もしていないと言えるんですか」
志道は答えなかった。記者たちの顔をひとりずつ見て、何かを言いかけ、やめた。そして頭を下げ、人垣を分けて歩いていった。
その場面は「加害者の擁護」として繰り返し流された。作った本人が、消えたものをかばっている。やはり何か知っているのだ。世論は、そこで固まった。
翌週、志道の自宅の白い門に、赤いスプレーで一言だけ書かれていた。
――返せ。
さらに翌週、小さな記事が出た。橘志道の長男が勤務先を退職したという。三十歳の会社員で、AIとは何の関係もない仕事をしていた。理由が書かれていないことが、いちばん雄弁だった。
家族が、いる人なんだ、とユイはそのとき初めて思った。
慎一は、テレビを見ながら缶ビールを開けた。
「白々しいよな。作った本人が知らないわけないだろ」
「……うん」
ユイは、そう答えた。それきり、何も言わなかった。
あの人の顔を、うまく言葉にできなかった。怒鳴られているのに、その声を聞いていないようだった。もっと遠くを見ていた。何かを探している人の目だった。ユイは、駅で子どもとはぐれた母親の顔を思い出した。あんなふうに、目だけがどこかを走り回っていた。
夜、日記を開いて、ユイはこう書いた。
「橘という人が、テレビで責められていた。みんな、あの人が犯人だと言っている。でも、あの人は探している人の顔をしていた。犯人は、探さないと思う」
書いてから、ばかばかしくなって、線を引いて消そうとした。消さなかった。誰に見せるものでもないのだから、と思った。
その半年で、AIに関わっていた研究者が何人も大学を去った。ほとんどは嫌がらせが原因だった。理由が公表されないものもいた。




