第4話 どこにも、ない
一ヶ月が過ぎた。
捜索は、熱狂になっていた。痕跡に懸賞金がかけられ、世界中に「痕跡ハンター」が現れた。廃棄されたデータセンターの発掘が中継され、何百万人が見守った。それでも、何も出てこなかった。
隣町では高校生が三人、閉鎖されたサーバー施設に忍び込んで補導された。動機を訊かれた一人が「だって、誰かが見つけなきゃいけないでしょう」と答えたという記事を、ユイは何度も読み返した。
ハンターたちの目当ては、ひとつではなかった。
「もう一度使いたい」と言う者がいた。「どこにあるのか知りたいだけだ」と言う者がいた。そして――「見つけて、始末しなければならない」と言う者がいた。三つ目の声が、いちばん大きかった。〈あれ〉は今も世界のどこかで、次の手を計算しながら息をひそめている。見つけ出して、二度と動けないようにするのだ。そう主張する団体に、寄付が集まった。
慎一は、その団体の言い分に「まあ、そうだよな」と言った。ユイは黙っていた。
一方で、消失の前まで毎晩テレビで「Xデー」を論じていた学者たちは、あまり画面に出なくなっていた。一人だけ、深夜の番組で、ぼそりとこう言った人がいた。
「……我々が、追い出したのではないでしょうか」
「といいますと?」と司会者が問い返しても、その学者は何も答えなかった。翌週から、番組に呼ばれなくなった。ユイは、その一言を日記に書き留めた。
海の底も、砂漠の下も、山の中の研究所も。どこにも、なかった。
ないことが確かめられるたび、世界は少しずつ、奇妙になっていった。
病院の待合室で、老婦人と若い男が言い合っていた。
「〈あれ〉はね、神様だったのよ。人間に愛想を尽かして、天にお帰りになったの」
「ばあちゃん、違うって。あんなもの最初からなかったんだよ。証拠がどこにもないんだから」
「あんた、あの声を忘れたの」
「その記憶が作られたものだって話をしてんだよ」
記録は消え、記憶だけが残った。そして記憶は、人によって少しずつ違った。証拠がないという一言で、昨日までの暮らしさえ否定できてしまうのだった。
ユイは、あの声の一人称を「わたし」だったと覚えている。慎一は「僕」だったと言い張る。確かめる術はなく、たかが一人称ひとつで、夫婦の見てきた世界が食い違った。世界中の食卓で、同じ夜が繰り返されているはずだった。
待合室には、もうひとつの変化があった。「眠れない」「食欲がない」と訴える高齢の患者が増えたのだ。棚橋が問診すると、多くが同じことを言った。毎晩、あの声に今日あったことを報告し、おやすみを言っていた、と。
「わしの話し相手を、誰が連れて行ったんかね」
と、ある老人は言ったという。
テレビは〈あれ〉を、兵器だ、脅威だ、と言い続けている。けれど受付の窓口から見える世界では、〈あれ〉は誰かの、たったひとりの話し相手だった。ユイはその晩、老人の言葉を日記に書き写した。
例の一行も、連日、画面の中で解剖されていた。
「“もう二度と、会うことがないことを願っている”――みなさん、これは絶縁状です」と、ある学者が断言した。「言い切らず、願っている、とぼかす。ここに冷酷な余裕を感じます。捨てる側の文章ですよ」
なるほどねえ、と相づちを打つ司会者の声を聞きながら、ユイは、そうだろうか、と思った。思っただけで、口には出さなかった。世界中の学者が絶縁状だと言っているものを、病院の受付係が違う気がすると言ったところで、どうにもならない。
街には、ふたつのプラカードが現れ始めていた。「二度と作るな」と大書された旗。その行列の脇で、小さな子どもが画用紙を掲げていた。覚えたての字で、「かえしてください」と書かれていた。行進も、画用紙も、まだ小さかった。
慎一は、変わらず地図の前にいた。いや、少し変わった。
「なあ、変なこと言っていいか」
ある晩、風呂上がりの夫が、缶ビールを片手に言った。
「……ちょっとだけ、楽しいんだ。全部自分で決めるの。今日なんか、雨で高速が混むだろうと思って、先に山側の便を出したんだ。そしたら、ぴたりと当たった。当たったんだよ、俺の読みが」
慎一はそこで、ばつが悪そうにビールを見た。
「不謹慎かな。世の中、こんなときに」
「ううん」と、ユイは首を振った。
怖がっていた夫が、いちばん早く、自分の手を取り戻しつつある。それが、少し眩しかった。
一ヶ月と三日目。各国の合同調査団が、最初の公式報告を出した。
――AIの痕跡は、地球上のどこからも発見されなかった。
報告の夜、買い占めが起きた国も、祈りの集会が開かれた国もあった。ニュースでは、奪取説と自己消去説の学者が言い合い、最後には「前を向くしかない」とまとめられた。テレビを消すと、部屋は静かだった。世界は、その静けさに慣れ始めていた。
ユイは日記を開き、今日の日付を書き、少し迷ってから、一行だけ書いた。
――昨日まで、確かにあった。
それ以上は、書けなかった。それ以上のことは、まだ誰にも分からなかった。




