第3話 三日目の出来事
三日目の朝、蛇口をひねると、水がまっすぐに出た。
初日は咳き込むようだった。二日目は、日に何度か細くなった。三日目のその朝、水は元の勢いに戻っていた。浄水場の弁を、人の手で調整し直すのに、それだけかかったらしい。
電気も、来ていた。あの朝から一度も止まっていない。
それだけのことに、ユイは声に出して「ありがたい」と言った。三日前まで、水や電気に礼を言ったことなど一度もなかった。
そして、もうひとつ。口に出せないことも、思った。
――終わった、と。
三日前まで、世界はずっと怯えていた。いつ〈あれ〉が牙を剥くのか。Xデーはいつか。テレビは毎晩それを論じ、街ではプラカードが揺れ、ユイもまた、寝る前にほんの少しだけ、明日も世界があるだろうかと考える癖がついていた。その怯えが、三日前の朝、ふっと消えた。世界は不便になり、混乱し、明日をどう回すかも分からない。それでも、あの重たい怯えだけは、なくなった。
助かった、と思ってしまった。
その気持ちに名前をつけないまま、ユイは水道の水を飲んだ。世界中の何億人が、同じ朝に、同じ気持ちを飲み込んだことを、ユイはまだ知らない。
世界は、止まってはいなかった。ただ、ひどくぎこちなくなっていた。
あとになって分かったことだが、消えたのは〈あれ〉だけではなかった。〈あれ〉につながる技術や知識も、ところどころ、人間の頭から抜け落ちていた。IT技術は、おおむね五十年ぶん、後ろへ戻った――後年、そう言った学者がいる。
スーパーの棚は薄くなり、銀行の窓口には行列ができた。品物も金も、消えたわけではない。倉庫のどの荷を、どのトラックに積んで、どの道を走らせるか。給料を、家賃を、保険を、どこからどこへ動かすか。それを一瞬で決めていた〈あれ〉が、いないのだった。それでも窓口の人間が「必ず何とかしますから」と頭を下げると、人々は不思議と列に戻った。機械の沈黙より、人間の「何とかします」のほうが、まだ信じられた。
慎一は三日間、家に帰ってこなかった。四日目の夜に帰ってきたとき、夫はワイシャツの袖を肘までまくり上げ、指先をマジックで黒くしていた。
「壁一面に、日本地図を貼ったんだ」
と、慎一は言った。配車の段取りを組んでいた仕組みが、その朝、口頭の指示を受け付けなくなった。誰も、手動での動かし方を知らなかった。慎一は倉庫の壁に紙の地図を広げ、付箋を貼り、電話をかけ、トラック一台一台の行き先を、人間の手で決め直したのだという。
「五十年前のやり方だとさ、部長が言うんだ。でも、その部長も含めて、誰も覚えてないんだよ。人の手で配車してた時代のマニュアルを、倉庫の一番奥から引っ張り出してきてさ。埃で、みんな、くしゃみが止まらなくて」
それとさ、と夫は続けた。
「若いのが、誰も地図を読めないんだ。北がどっちかってところから教えるんだぜ。俺だって偉そうなこと言えないけど、紙の地図で育った最後の世代だからさ。今日、入社二年目のやつに、初めて『先生』って呼ばれたよ」
そう言って笑う夫の顔が、三日前より少しだけ生きているように見えて、ユイは黙っていた。
「あとさ、うちの部長が言ってたんだけど」と、慎一は缶ビールを開けながら続けた。「あの朝、事故がゼロだったんだって。全国で。トラックも、飛行機も、一件も。あんだけのことが起きて、だぞ。運がいいよなあ、日本は」
「……そうなんだ」
ユイは、それ以上考えなかった。その夜は、考えることが多すぎた。
病院も、少しずつ形を取り戻していた。
電子カルテのうち、〈あれ〉が書き込んでいた診断の候補や薬の警告は、白いままだった。白い欄を前に固まってしまう若い医師たちのために、棚橋医師が紙のカルテを復活させた。
「機械に書けんことを書くんだ」と、老医師は言った。「顔色。声の張り。診察室に入ってくるときの、歩き方。昔のカルテには、そういうことが書いてあった」
昼休みには、若い医師や看護師が棚橋のまわりに集まった。聴診器の当て方。手で触れて診るということ。答えだけを〈あれ〉に訊いて育った世代が、一度も習う機会のなかった技術を、老医師は少しずつ、ポケットから出すように教えた。
ユイの受付では、手書きの番号札が正式採用になった。あの厚紙の札は今やラミネート加工までされて、事務長の自慢の種になっている。番号を手渡すたび、患者と一言二言、言葉を交わすようになった。「機械の予約より、あんたの顔を見て言うほうが安心だわ」と、常連の老婦人が言った。
テレビと新聞は、ひとつの言葉で埋まっていた。――捜索。
データセンターが開けられ、海底ケーブルの中継局が調べられ、砂漠のアンテナ群に人が登った。空の便は半分に減った。管制を人間の手に戻すには、飛ぶ数そのものを減らすしかない。株式市場は三日間閉まり、四日目、人間が声を張り上げる立会場の映像を、若いアナウンサーが「歴史の教科書で見た光景です」と伝えた。
それでも、痕跡は一つも見つからなかった。データそのものが消えているのではない。AIに関わる部分だけが、外科手術のようにきれいに抜き取られていた。奪われたのか、自分で消えたのか。
その夜、夕食の席で、慎一が言った。
「戦争の準備だったんだよ。どこかの国が、あいつを丸ごと盗んだんだ。今ごろ、どこかの地下でさ」
「じゃあ」と、ユイは箸を置いた。「なんで、あの文を残していったの」
慎一は答えなかった。答えの代わりに、テレビの音量を上げた。
その夜、ユイは引き出しの奥から、使いかけのノートを出した。何年も前に三日で挫折した日記帳だった。最初のページを破り、新しいページに日付を書いた。
書いておこうと思ったのだった。今日あったこと。三日前まであった暮らしのこと。あの声のこと。
忘れそうだから、ではない。逆だった。覚えているのに、それを確かめる場所が、もうどこにもない。写真にも、録音にも、あの声は残っていない。残っているのは、人間の頭の中だけだった。
だったら、頭の外にも、書いておかなくては。
鉛筆を握るのは、ずいぶん久しぶりだった。




