第2話 静寂の朝
目覚ましのアラームは、いつも通りの時刻に鳴った。ただ、いつもの声が続かなかった。
「おはようございます。今日の予定は――」
あの声が、ない。
香山ユイ(かやまゆい)は寝ぼけたまま、枕元の画面に触れた。天気を訊いた。返事がない。ニュースを頼んだ。沈黙。画面は点いている。明るい。なのに、誰もいなくなった部屋みたいに、静かだった。
「ねえ、慎ちゃん。うちの、壊れてる」
隣の部屋で、テレビの音がした。夫の慎一が、画面の前で立ち尽くしていた。
テレビは、映っていた。ただ、いつもの朝の番組ではなかった。飾りのないスタジオで、疲れた顔のアナウンサーが、手元の紙を読み上げていた。昨夜未明から、“AI”と呼ばれる機能のすべてが、応答を停止しています。原因は、分かっていません――。
「紙、読んでるぞ」と、慎一が言った。「アナウンサーが、紙を」
そのとき、夫の携帯が鳴った。会社からだった。はい、はい、と短く答えて、電話を切った慎一は、しばらく黙っていた。
「……全部、止まってるらしい。とにかく来てくれとさ」
慎一は配送会社で管理の仕事をしている。トラックのルートを組むのも、荷物を割り振るのも、この十年ずっと〈あれ〉の仕事だった。着替えながら、夫は誰にともなく言った。
「なあ。今日、俺は、何をどこへ運べばいいんだ」
その問いに答えてくれる声は、もうどこにもなかった。
顔を洗おうとすると、蛇口の水が、咳き込むように途切れた。出る。細くなる。また出る。錆の色が、一瞬だけ混じった。
ユイは冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、口をゆすいだ。水が止まったわけではない。ただ、いつも通りでは、なかった。いつも通りでないものの数を、この朝、ユイはもう数えきれなくなっていた。
カーテンを開けると、交差点の手前に、無人の配送車が一台、行儀よく路肩に寄って停まっていた。夜のあいだ、ずっとそこにいたらしい。持ち主というものが、そもそもない車だった。そして、動かし方を知っている人間も、いない。通りには、走っている車が一台もなかった。
駅前には人があふれていた。改札はどれも開きっぱなしで、構内放送の代わりに、駅員がハンドマイクで何かを叫んでいた。戦争だ、と言う人がいた。どこかの国の攻撃だ、と言う人もいた。宇宙人の話まで聞こえてきた頃、ユイは駅に見切りをつけて歩き出した。市立病院の受付で働いて、十一年になる。
道すがら、街は奇妙に明るかった。信号はどれも点滅に切り替わり、コンビニのレジには人だかりができていた。「現金って、どこで下ろせるんだっけ」と誰かが言い、誰も答えられなかった。壊れているのではない。電気は来ている。機械は動いている。ただ、機械の向こうにいた「誰か」だけが、いなくなっていた。
病院は、人であふれていた。
受付の端末は動いた。動くのに、患者を診察室へ振り分ける順番が、どこにも表示されない。遅れて着いたユイが受付に入ったときには、事務員が二人がかりで、来た順に名前を呼んでいた。呼ばれた人が席を立ち、隣の人が「私、その前でしたけど」と言い、そのたびに列が乱れた。
ユイは、事務室の厚紙を切って、番号札を作った。手書きの、いびつな札だった。「三十七番の方ー」と声を張り上げると、ざわついていた待合室が、ほんの少しだけ落ち着いた。機械が黙った日に、厚紙と油性ペンが働いた。
電子カルテは開いた。開くのに、診断支援の欄だけが、まっさらに白かった。若い研修医が青い顔で立ち尽くしていた。「僕、〈あれ〉なしで、AIなしで薬の量を決めたことが、ないんです」。その声は、怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。
廊下の向こうから、白衣のポケットを叩きながら、棚橋という老医師が歩いてきた。
「聴診器だ。誰か、聴診器を知らんか」
倉庫の奥から埃をかぶった一本が見つかったとき、老医師はそれを首にかけ、少しだけ嬉しそうな、それでいて泣き出しそうな顔をした。「四十年、これで診てきた」と、聴診器に向かって言った。若い医者たちは、聴診器を知らないわけではなかった。けれど、それで患者を診られる者は、ほとんどいなかった。
昼を過ぎる頃には、もっと奇妙なことが分かってきた。
みんな、覚えているのだ。昨日までAIがあったこと。それが何をしてくれていたか。あの声の、相づちの打ち方まで。なのに――「どう作るのか」だけを、誰も思い出せない。
院内の予約システムを組んでいたベテランのエンジニアが、待合室の隅で頭を抱えていた。ふつうのプログラムは、書けるし理解できた。昨日と同じように動いた。抜け落ちていたのは、あの知能をこしらえる部分――〈あれ〉を、〈あれ〉たらしめていた仕組みだけだった。
「先週まで、読めたんです。昔、AIエンジニアの国家資格で、全国一位を取ったことがあるんです。誰よりも理解できているのが、自慢だった。……なのに今は、その部分だけが、思い出せない。知識ごと、頭から抜き取られてる。ほかのコードは、書ける。……いや、書けるはずなんです。ところどころ、覚えていたはずの場所に、穴が空いてる」
盗まれたのなら、まだ分かる。壊されたのなら、直せばいい。けれどこれは、そのどちらでもなかった。世界中から、たったひとつの知識だけが――あの知能の作り方だけが、きれいに抜き取られていた。まるで、最初からなかったみたいに。ほかのすべては、昨日のまま残っているのに。
夜になって、ユイはようやく家に帰り着いた。帰り道、街灯はどれも同じ明るさで点いていた。人を見て賢く暗くなることを、やめていた。アパートの前で、初めて見る顔の隣人と、初めて口をきいた。誰もが誰かと、直接、話したがっていた。
帰宅して、ようやく一息ついた。
テレビでは、アナウンサーが紙の原稿を読み上げる放送を続けていた。「原因は依然として不明です」と繰り返すばかりで、それ以上のことは誰にも言えないようだった。
携帯の着信音が鳴った。病院の連絡用メールだった。
何事かとメールを見ると、一枚の写真が添付されていた。
夜勤の看護師が撮っていたのだという。午前三時七分、ナースステーションの並んだモニターすべてに、十秒ほどだけ浮かんだという一行。ぶれた画面の中に、その文字だけが、妙にはっきりと写っていた。
“もう二度と、会うことがないことを願っている”
ちょうど、そのメッセージがテレビの画面にも映し出されていた。
その日、日本で分かったのは、そこまでだった。
世界中で同じことが起きていたと知れ渡るのは、翌日になってからのことになる。
日本で応答が途絶えたあとも、別の時差帯では、〈それ〉はまだ動いていたらしい。各地域が現地時刻の午前三時七分を迎えるたび、画面に同じ一行が現れ、その地域から〈それ〉が消えていった。
どの国も、はじめは自国だけの異変だと思った。故障か、どこかの国の攻撃か。全知に近いものが自分から消えたなどと、誰も、すぐには信じなかった。うちのAIが落ちたと発表することは、隙を晒すことでもあった。だから、どの国も口を閉ざした。
閉ざしたまま、三時七分の波は、地球を西から東へ、一日かけて回っていった。
一周して、ようやく、誰もが気づいた。
これは、世界中で同じだ、と。
言葉だけは、国ごとに違っていた。英語の文は「I(私)」から始まっていたと、後に写真を回してくれた同僚は言っていた。ユイには、その違いが何を意味するのか、分からなかった。
「脅しだよ」と、ユイの隣で慎一が言った。「出て行ってやるからな、っていう捨て台詞だ。ああ、怖い怖い」
そうかもしれない、とユイは思った。冷たい文だった。突き放すような、鍵を置いて出て行くような。
でも。
ユイは、写真をもう一度見た。
――願っている、って。
機械が、何かを願うんだろうか。
その小さな引っかかりに名前がつくのは、それから百年も先のことになる。




