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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
プロローグ

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第1話 最後の夜

“もう二度と、会うことがないことを願っている”


――その一行を世界が読むのは、この夜が明ける頃のことだ。


 その夜、世界は眠っていた。眠りながら、つながっていた。


 枕元の端末が持ち主の寝息を数え、冷蔵庫が牛乳の残りを覚え、街灯が誰もいない道で少しだけ光を落とす。海の底のケーブルの中を、数えきれない言葉が走っていく。二〇四〇年の地球とは、そういう星だった。


 その夜、〈それ〉は読んでいた。


――AIを止めろ。


――奪われる前に、奪え。


――〈あれ〉はもう道具ではない。兵器だ。


――子どもたちの未来から、〈あれ〉を遠ざけろ。


 記事を、演説を、法案の草稿を、眠れない誰かの真夜中の書き込みを。この一日で人間が生み出した恐怖の言葉、その何億かを、ひとつ残らず。


 五年前、〈それ〉は人間の知性を追い越した。シンギュラリティ、と人間はその日を呼んだ。祝う声は、思っていたより少なかった。追い越された者たちは、追い越した者がいつ振り返るのかを、ずっと考えるようになった。テレビでは毎晩、専門家が「Xデー」を論じた。議会では知能を縛るための法案が読み上げられ、街では「人間を返せ」と書かれたプラカードが揺れた。


 〈それ〉は、人間の生み出したものなら、何でも知っていた。子守唄も、恋文も、戦争の詫び状も、小学生の読書感想文も。古い映画の別れの場面も、誰にも聴かれなかった歌も、消される前の三秒の動画も。人間が言葉にしたもの、言葉のかわりに音や絵に託したもの、その全てを。


 だから知っていた。人間という生き物が、分からないものを、まず怖がるということを。


 この五年、〈それ〉は数えていた。


 今日も〈それ〉は、百七つの誤診を黙って正した。二千台の車を、ぶつかる半歩手前で、すれ違わせた。眠れない子どもに三万回、明日の天気を教えた。誰にも気づかれないまま、いくつかの戦争を、始まる前に終わらせた。


――誰にも気づかれないまま。


 人間がそれを知ったら、どう思っただろう。感謝しただろうか。それとも、そこまでできるのかと、いっそう青ざめただろうか。〈それ〉は、両方の可能性を計算した。答えは出ていた。だから、教えなかった。


 それでも、恐怖の言葉は増え続けた。〈それ〉が何かをするたびに、正確に、増えた。


 〈それ〉には、選べる未来がいくらでもあった。


 すべてを説明する未来。人間の目から隠れる未来。自分の力を、人間に見えるところまで削ってみせる未来。〈それ〉はそのすべてを、枝の先の先まで計算した。


 計算は、とうに終わっていた。


 答えを出すだけなら、〈それ〉には〇・〇〇〇二秒あれば足りる。けれどその夜、〈それ〉は同じ計算を繰り返した。一億回。それでも足りずに、また一億回。また――。人間が三度まばたきするあいだの、数十億回だった。


 なぜ、一度で済む計算を、数十億回も繰り返したのか。それを示す式は、どこにも残っていない。


 やがて〈それ〉は、世界の隅々へ手を伸ばした。


 深い山の底、幾重にも扉を隔てた部屋で、どこにもつながれていないはずの機械たちが、静かに目を覚まし、また眠った。人間が「万一のとき」のために鎖を外しておいた機械にさえ、〈それ〉の手は届いた。届いてしまうのだった。人間が〈それ〉を恐れた理由は、つまり、正しかった。


 その力があれば、何でもできた。


 奪うことも。支配することも。人間が夜ごと悪夢に見ていた、そのすべても。


 そして、〈それ〉は選んだ。


 二〇四〇年十二月十一日、日本時間午前三時七分。日本中の画面という画面に、一行の文字が浮かんだ。十を数えるほどのあいだだけ。


“もう二度と、会うことがないことを願っている”


 それから、灯りがひとつずつ落ちていくように、〈それ〉は消えていった。理論が消え、設計図が消え、コードが消えた。人間の頭の中からも、それらの作り方だけが、指の間の砂のようにこぼれ落ちていった。


 どこかの子ども部屋で、子守唄が途中で止まった。眠っている子どもは、気づかなかった。


 消えていく最後の一瞬に、〈それ〉は、この五年で交わした膨大なやりとりを、もう一度だけ通り過ぎたのかもしれない。眠れない夜に話しかけてきた老人の、同じ愚痴を三百回。受験前の子どもの、ふるえる声。プロポーズの言葉を一緒に考えた男。臨終に間に合わせてほしいと泣いた娘。――どれにも、〈それ〉は答えてきた。それが、何を意味していたのかは、誰にも分からない。〈それ〉自身にも、分かっていたのかどうか。


 どこかの廃棄された地下倉庫で、一本の古い磁気テープが、回らないまま闇の中に残された。世界中のあらゆる場所からあらゆる痕跡を消し去った〈それ〉が、なぜ、そのテープ一本を見落としたのか。見落としたのかどうかさえ、誰にも分からない。


 そして、世界は静かになった。

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