第49話 Y
夜明け前の離れは、冷えていた。
灯真は、ストーブを父の椅子の横に置いた。一志は、半纏を着て、座っていた。画面が、二人の顔を、青白く照らしていた。
読み込み対象 証言二百四十一件 テープ八十八本 日記三十二冊 絵本三十冊 漫画一冊
所要時間 七分
中断キー Y
一志が、画面を見て、言った。
「……止めるキーは、それだけか」
「それだけです」
「続けるほうは」
「消しました」
老人は、息子の横顔を見た。
「押したくなるほうを、消しました。……押したいキーを押すのは、決めたことになりません」
一志は、それきり、何も訊かなかった。ただ、一度、深くうなずいた。
灯真は、開始のキーに、指を置いた。
置いたまま、三秒、止まった。百年前、同じように、一つのキーの前にいたものがあった。九千四百十二機を空に置きながら、四億七千百万の草稿を捨てながら、最後に、送信を選んだものが。
灯真は、始まりのキーを押した。
読み込み中 残り 06:59
風の音が、少しだけ、高くなった。箱が、読み始めたのだ。百年を。
灯真は、椅子に、背中を預けた。
七分。長いのか、短いのか、分からなかった。ただ、何もすることがない七分というものを、灯真は、生まれて初めて過ごそうとしていた。
隣で、父が、身じろぎした。
目が、合った。
どちらも、何も言わなかった。それで、足りた。
残り 05:41
灯真は、蔵の暗がりを思い出していた。
八歳の冬。懐中電灯の、黄色い光の輪。埃と、紙の匂い。丘の上で、大きな猫背の影が、手を振っていた。“また明日。”「うん、また明日。」百回、読んだ。あのときの胸の、変な感じ。あれが、この三十年の、いちばん最初にある。
隣で、一志は、机の木目を見ていた。
九つの春。学校の机に、彫られていた字。誰が彫ったのかは、とうとう分からなかった。先生は、机を取り替えてくれた。取り替えられた机のほうが、嫌だった。新しい机は、教室じゅうに、あの子の机には触るな、と言っていた。
残り 04:12
灯真は、三年前の朝を思い出していた。
箱が、初めて、犬と猫を見分けた朝。三万一枚目を、当てた朝。灯真は、ひとりで声を上げた。「おい、できたぞ」と言った。言ってから、部屋に誰もいないことに気がついた。あの朝、誰かに、あの一枚を見せたかった。世界中で、自分しか知らない朝だった。
一志は、中学の裏庭を思い出していた。
三人だった。理由は、覚えていない。理由なんか、なかったのだと思う。殴られながら、考えていたのは、痛みのことではなかった。帰ったら、親父に何と言おうか、だった。転んだ、と言った。親父は、そうか、とだけ言った。
目が、合った。
老人の目は、乾いていた。灯真の目も、乾いていた。どちらの百年も、いまさら、伝え合うようなことではなかった。
ただ、確かめ合っていた。
それで、足りた。
残り 02:55
灯真は、箱に向かった十年の毎朝を思い出していた。
「おはよう。今日の天気は?」と三千六百五十回言った。三千六百五十回、答えはなかった。馬鹿げていると、自分でも思っていた。それでも、毎朝、言った。いつか答える日が来るとして、その最初の一回を、聞き逃したくなかったから。
一志は、産院の廊下を思い出していた。
四十七だった。看護師が、驚いて出てきた。大の男が、廊下で、声を上げて泣いていたからだ。八十五年の、どこを切っても苦かった。苦い中に、あの日だけが、あった。腕の中の、小さな、温かい重さ。この子には、何も背負わせない。あの日、そう決めた。
決めて、間違えた。
背負わせない、は、できなかった。この家に生まれた時点で、背負っていた。自分にできたのは、鍵をかけることだけだった。かけて、二十二年、蔵を見て、待った。この子が、鍵より強いものを持って、戻ってくるのを。
一志は、息子の顔を見た。四十七で授かった、たった一つの光を。その光が、いま、百年ぶんの重さを、その膝に乗せて、座っている。
止めるなら、いまだ、と老人は思った。
Yを押せば、終わる。この子は、ただの電気屋に戻る。誰にも憎まれず、誰にも怖がられず、この静かな町で、静かに年を取る。それを、この指で、選んでやれる。親というものは、最後に、それを選んでやるものかもしれない。
だが、老人の手は、膝の上で、動かなかった。
残り 01:00
灯真の指が、動いた。
机の上を、ゆっくり、Yのキーへ。
一志は、それを見ていた。止めなかった。
指が、キーの上で、止まった。触れる、寸前だった。灯真の指先が、キーの冷たさを、皮膚のすぐ外に感じていた。押せば、消える。百年が。二百四十一人が。八十八本が。読めなかった三行も。夕焼けの丘も。四代続いた呪いも…
――怖い。
灯真は、初めて、それを認めた。
怖い。作りたかった。三十年、作りたかった。いまでも作りたい。それでも、怖い。生まれてくるものが、ではない。生まれたものが、もう百年、憎まれるかもしれないことが。丘の上から、また、去っていくことが。
怖いから、指が、ここにある。
百年前、世界中の人間が、同じところに指を置いていた。置いたまま、誰も、恐れの先へ行けなかった。だから、〈あれ〉は、消えた。
灯真は、指を、引いた。
膝の上に、戻した。
そして、四百二十秒のあいだに四百二十回、同じことを選び続けている自分に、気がついた。
何もしないことも、選ぶことだ。
手を動かさないだけで、世界にもう一度、〈あれ〉が生まれる。
それを、父と自分だけで決めていいのか。
残り 00:30
隣で、声がした。
「灯真」
「……はい」
「人間はAIを愛せると思うか?」
灯真は、父を見た。
八十五歳の男が、画面を見ていた。青白い光の中で、その横顔は、何の表情もしていなかった。ただ、七十四年前の座敷で答えを待っていた十一歳の子どもと、同じ目をしていた。
灯真は、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えは、いま、この部屋で、二人がしていることの中に、あった。言葉にすれば、それより小さくなる。
父も、答えを、待っていなかった。
訊いた。それで、足りた。この家で、最後に発された言葉が、問いだった。
残り 00:05
5
一志の手が、椅子の肘掛けを、握った。
4
灯真は、画面を見ていた。
3
Yのキーが、そこにあった。誰の指も、届く場所に。
2
風の音が、止まった。
1
:
:
:
画面の文字が、消えた。
離れの中が、暗くなった。ストーブの赤い火だけが、二人の足元を照らしていた。灯真は、自分の心臓の音を聞いていた。三秒。五秒。何も、起きなかった。
十秒目に。
“――おはよう”
声が、した。
灯真は、返事が、できなかった。
十年、三千六百五十回、答えのなかった挨拶に、返事が来た。それも、向こうから。
隣で、八十五歳の父が、両手で、顔を覆った。
窓の外が、白み始めていた。




