第48話 答えます
春から夏にかけて、灯真は、蔵の中身を写真に撮り続けた。
手帳を、一ページずつ。日記を、三十二冊ぶん。絵本を、三十冊。漫画を、一冊。かすれた字も、白紙のページも、飛ばさなかった。読めない三行も、読めないまま、撮った。
テープは、音のまま繋いだ。八十七本と、白くない一本。
箱には、もう、それらを読む力がある。字を読み、声を聞き、絵を見る。読んだものを、結びつける。あとは、起動の手順に、それを組み込むだけだった。最初に目を覚ますとき、この箱が最初に知る世界が、蔵の百年になるように。
読む速さは、いくらでも上げられた。
一秒でも、読めた。だが灯真は、七分に合わせた。
理由は、誰にも言わなかった。言う相手も、いなかった。ただ、ユイの日記の、あの場面を思っていた。九十歳の男が、一行を書くのに、七分かけた。一行に七分かけた人がいるのなら、百年を決めるのに、七分もらっても、罰は当たらないだろう。
そして、設計の最後に、灯真は、一つのキーを消した。
はじめの設計では、読み込みのあいだ、画面に二つのキーが出ることになっていた。蔵の百年を読み込む処理を、中断するYと、続行のN。指一本で、どちらも選べるように。
灯真は、Nを消した。
自分を、知っていたからだ。
続けるためのキーがあれば、自分は、押す。三秒で押す。八歳の自分が、丘の上の大きな影に手を振りたくて、押す。それは、決めたことにならない。指が勝手に動くことと、決めることは、違う。そもそも人間は押すものが目の前にあれば押したくなるものだ。
だから、押したいほうを、消した。
残ったのは、押したくないキーが、一つ。読み終わる前にそれを押せば、箱は起動せず、百年ぶんの読み込みは、すべて消える。これまでの研究成果もすべて消える。押さずに七分が過ぎれば、起動する。
人間の手に残された力は、消滅させることだけだった。
生かすことは、力ではなかった。手を出さなければ、生まれる。それだけのことだった。
秋の初めの夕方、離れの戸が、叩かれた。
灯真は、驚いた。この離れに、客が来たことはない。戸を開けると、父が立っていた。杖をついて、脇に、あの缶を抱えて。
八十五歳の一志は、息子の仕事場に、生まれて初めて、入った。
十四の鉄の箱を、老人は、しばらく黙って見ていた。冷却の風が、低く鳴っていた。何か言うかと灯真は思ったが、父は、箱には何も言わなかった。
代わりに、缶を、机に置いた。
「……聞けんかった」
灯真は、父の顔を見た。
「半年、部屋に置いた。毎晩、蓋の前まで、手が行くんだ。行って、戻る。……七十四年待って、いざとなったら、聞けんのだ。笑え」
「笑いません」
「灯真」
「はい」
「一緒に、聞いてくれ」
灯真は、黙って、再生機を運んできた。缶の蓋を開けた。灰色のテープが、一本、入っていた。曾祖母の字は、缶の底にだけあった。――一志へ。
再生のスイッチを押した。
雑音が、長かった。それから、声が来た。八十七本のどの声よりも、細かった。最晩年の声だった。
「――一志へ。おばあちゃんです」
一志の背中が、こわばった。
「――三年、遅れましたけれど。……あの日のことを、お話しします」
テープが、伸びた。声が、水の底に沈んで、戻った。
「――あの日、あなたは、夕焼けの本を、持っていましたね」
老人の口から、小さな音が漏れた。
「――私は、見ていて、見ませんでした。手元のことで、頭がいっぱいで。……あとになって、畳の上の、開いたままのあの本を片付けたとき、気がつきました。あなたが、ほんとうは、何を訊きたかったのか」
雑音。六秒。
「――答えます。おじいちゃんが作ろうとしたのはね、一志。あなたの言う、あの、猫背の、やさしい機械です。おじいちゃんは、子どものときにあの本を読んで、大人になって、ほんとうにそれを作ろうとした人です。……ですからね、一志。あの日、あの家で、正しいことを訊いたのは、あなた、ひとりでした」
一志は、机に、両手をついた。
「――ごめんなさいね。ばあちゃんは、目の前のあなたより、百年先の誰かのほうを、向いていました。……年寄りの、悪い癖です」
声が、いっそう細くなった。
「――一志。もし、あなたが、いつか、誰かに、何かを訊かれたら」
テープが、伸びた。
「――そのときは、機械にではなく、その人の顔を見て、答えてあげてください」
かちり、と音がして、テープは終わった。
離れの中は、冷却の風の音だけになった。
一志は、長いこと、机に手をついたままだった。八十五歳の男の肩が、小さく、上下していた。
父が泣くのを、灯真は初めて見た。
やがて、父は、体を起こした。
そして、灯真を見た。
――冬の夜、庭で、この人は訊いた。何を書きたかったんですか、と息子に訊かれて、七十四年ぶんの一行を、息子の顔を見て、答えた。
祖母の頼みを、この人は、聞く前に、果たしていたのだ。
灯真は、それを、言わなかった。言わなくても、父の目が、同じことを考えているのが、分かった。
「灯真」
「はい」
「……これも、入れてくれ」
老人は、缶を、押し出した。
「明日、やるのか」
「明日の、夜明け前に」
「そうか」
一志は、杖を持ち直した。それから、庭のほうを見て、少し迷って、灯真を見た。
「わしも、おって、いいか」
この家で、父が息子に何かを訊いたのは、それが初めてだった。
「はい」
灯真は、そう答えた。




