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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第15章 □すな

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第47話 七分

 その日、二人は、それきり喋らなかった。


 灯真は、離れへ戻った。ノートを開いて、鉛筆を持って、何も書かずに、夜まで座っていた。


 自分の読み方は、出すな、じゃない。


 消すな、だ。


 理屈は、通る。曾祖父は、封印条約に賛成した人だ。ユイの日記にある。封じるのは正しい、と面会室で言い切った人だ。そして、こうも言った。――忘れて封じるのは、消すのと同じです。あなたは、封じる係です。私は、覚えておく係をやります。


 その人が、死の床で、条約と同じ言葉を残すだろうか。


 だが、証明はできない。


 灯真は、それも分かっていた。父の言うとおりだ。筋なら、どっちにも通る。読めない一字は、読めない。どちらに読んでも、それは読む者が埋めた穴だ。


――お前のほうが、優しい穴の埋め方をした。それだけのことかもしれんぞ。


 灯真は、ふと時計を見た。


 夜の十時を過ぎて、庭で、音がした。


 灯真は、障子を開けた。


 父が、立っていた。


 杖をついて、寝間着の上に半纏を羽織って、離れの前の暗い庭に、八十五歳の男が立っていた。灯真は、慌てて、下駄をつっかけて出た。


「父さん、寒いですよ」


「寝られん」


「……中へ、入ってください」


「いい」


 一志は、動かなかった。灯真は、そのとき、父の足元が濡れているのに気がついた。下駄も履いていない。庭を、どこか歩いてきたのだ。


 蔵の方角だった。


「灯真」


「はい」


「あの字な」


 一志は、そう言った。


「七分かかったと、書いてあったな」


 灯真は、息を呑んだ。


「香山さんの日記です。それと、曾祖母さんのテープにも。……七分、かかったって」


「一行に、か」


「一行に、です」


 一志は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。


「俺はな、灯真。六十年、本を綴じてきた」


「はい」


「ここへ持ってくる人が、みんな、喋っていく。三十分待つあいだ、喋る。孫の話。膝の話。畑の話。……で、たまにな、書いたものを持ってくる人がいるんだ。手紙とか、日記とか。綴じてくれ、って」


 老人の息が、白かった。


「見るんだよ、俺は。中身は読まん。だが、字は見る。綴じるから、見るしかない。……六十年、何万枚と見た」


 一志は、杖を持ち直した。


「あのな。人がな、時間をかけて書く字ってのは、決まってるんだ」


 灯真は、庭の土に、片膝をついたままでいた。


「当たり前のことには、時間はかけん。当たり前のことは、すらすら書く。手紙の頭に、拝啓とか、お元気ですかとか、書くだろう。あれは、みんな速い。……時間がかかるのはな。誰も言ってくれなかったことだ。自分が、生きてるあいだに、一度も言えなかったことだ。それを書くときだけ、人は、手が止まる」


 風が、庭の木を鳴らした。


「八十五だぞ。手も動かん。あと二週間で死ぬ体だ。その人の、七分だ」


 一志は、灯真を見た。


「七分かけて、出すな、は書かんよ」


 灯真の視界が、揺れた。


「……そんな当たり前のこと、七分かけて書くわけがないんだ。世界中が禁じとる。法律で決まっとる。誰も反対しとらん。そんなもんは、年寄りでもすらすら書ける。……七分かかったってことはな、灯真。誰も言ってくれなかったことだ」


 灯真は、庭の土の上に、膝をついた。


「お父さん」


「消すな、だ」


 一志は、はっきり、そう言った。


「二度とAIを、消すな。……そう書いたんだ、あの人は」


 灯真は、父親の顔を見た。


 八十五年だ。この人の八十五年が、たったいま、裏返った。机の落書きも、殴られた日も、消えた見合いの話も、蔵の鍵も、息子に振り上げた手も、全部、読み違えた一字の上に乗っていた。それを、この人は、自分の職業の知識で、自分で、崩したのだ。


 誰にも証明できない一字を、六十年ぶんの手仕事で、読んだ。


「灯真」


「はい」


「……訊いていいか」


 灯真は、父の目を見た。


 父が、庭に立って、こちらを見ていた。杖に体を預けて、寒そうに、少し曲がって。


「香山さんの日記に、俺のことが、書いてあったろう」


 灯真は、うなずいた。


 四十八年前。八十三歳のユイが、日記三十二冊を抱えて、この家の玄関に立った日。三十七歳の一志は、こう言ったと書いてある。


――小学校の卒業文集に、何も書けませんでした。将来の夢を書く欄で、みんなが医者とかサッカー選手とか書いてる横で、僕は……書きたいことが、一つだけあった。でも、書けなかった。書いたら、殺されると思ったから。


「読みました」


「そうか」


 一志は、庭を見た。


 灯真は、立ち上がった。土を払わずに、父の前に立った。


「訊いてもいいですか」


「……」


「何を、書きたかったんですか」


 冬の終わりの、夜だった。


 八十五歳の老人は、長いこと、答えなかった。杖の先が、少しだけ、土にめり込んだ。


「……ロクを」


 声が、かすれた。


「ロクを、作りたかった」


 七十四年、この人が、誰にも言えなかった一行だった。

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