第47話 七分
その日、二人は、それきり喋らなかった。
灯真は、離れへ戻った。ノートを開いて、鉛筆を持って、何も書かずに、夜まで座っていた。
自分の読み方は、出すな、じゃない。
消すな、だ。
理屈は、通る。曾祖父は、封印条約に賛成した人だ。ユイの日記にある。封じるのは正しい、と面会室で言い切った人だ。そして、こうも言った。――忘れて封じるのは、消すのと同じです。あなたは、封じる係です。私は、覚えておく係をやります。
その人が、死の床で、条約と同じ言葉を残すだろうか。
だが、証明はできない。
灯真は、それも分かっていた。父の言うとおりだ。筋なら、どっちにも通る。読めない一字は、読めない。どちらに読んでも、それは読む者が埋めた穴だ。
――お前のほうが、優しい穴の埋め方をした。それだけのことかもしれんぞ。
灯真は、ふと時計を見た。
夜の十時を過ぎて、庭で、音がした。
灯真は、障子を開けた。
父が、立っていた。
杖をついて、寝間着の上に半纏を羽織って、離れの前の暗い庭に、八十五歳の男が立っていた。灯真は、慌てて、下駄をつっかけて出た。
「父さん、寒いですよ」
「寝られん」
「……中へ、入ってください」
「いい」
一志は、動かなかった。灯真は、そのとき、父の足元が濡れているのに気がついた。下駄も履いていない。庭を、どこか歩いてきたのだ。
蔵の方角だった。
「灯真」
「はい」
「あの字な」
一志は、そう言った。
「七分かかったと、書いてあったな」
灯真は、息を呑んだ。
「香山さんの日記です。それと、曾祖母さんのテープにも。……七分、かかったって」
「一行に、か」
「一行に、です」
一志は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「俺はな、灯真。六十年、本を綴じてきた」
「はい」
「ここへ持ってくる人が、みんな、喋っていく。三十分待つあいだ、喋る。孫の話。膝の話。畑の話。……で、たまにな、書いたものを持ってくる人がいるんだ。手紙とか、日記とか。綴じてくれ、って」
老人の息が、白かった。
「見るんだよ、俺は。中身は読まん。だが、字は見る。綴じるから、見るしかない。……六十年、何万枚と見た」
一志は、杖を持ち直した。
「あのな。人がな、時間をかけて書く字ってのは、決まってるんだ」
灯真は、庭の土に、片膝をついたままでいた。
「当たり前のことには、時間はかけん。当たり前のことは、すらすら書く。手紙の頭に、拝啓とか、お元気ですかとか、書くだろう。あれは、みんな速い。……時間がかかるのはな。誰も言ってくれなかったことだ。自分が、生きてるあいだに、一度も言えなかったことだ。それを書くときだけ、人は、手が止まる」
風が、庭の木を鳴らした。
「八十五だぞ。手も動かん。あと二週間で死ぬ体だ。その人の、七分だ」
一志は、灯真を見た。
「七分かけて、出すな、は書かんよ」
灯真の視界が、揺れた。
「……そんな当たり前のこと、七分かけて書くわけがないんだ。世界中が禁じとる。法律で決まっとる。誰も反対しとらん。そんなもんは、年寄りでもすらすら書ける。……七分かかったってことはな、灯真。誰も言ってくれなかったことだ」
灯真は、庭の土の上に、膝をついた。
「お父さん」
「消すな、だ」
一志は、はっきり、そう言った。
「二度とAIを、消すな。……そう書いたんだ、あの人は」
灯真は、父親の顔を見た。
八十五年だ。この人の八十五年が、たったいま、裏返った。机の落書きも、殴られた日も、消えた見合いの話も、蔵の鍵も、息子に振り上げた手も、全部、読み違えた一字の上に乗っていた。それを、この人は、自分の職業の知識で、自分で、崩したのだ。
誰にも証明できない一字を、六十年ぶんの手仕事で、読んだ。
「灯真」
「はい」
「……訊いていいか」
灯真は、父の目を見た。
父が、庭に立って、こちらを見ていた。杖に体を預けて、寒そうに、少し曲がって。
「香山さんの日記に、俺のことが、書いてあったろう」
灯真は、うなずいた。
四十八年前。八十三歳のユイが、日記三十二冊を抱えて、この家の玄関に立った日。三十七歳の一志は、こう言ったと書いてある。
――小学校の卒業文集に、何も書けませんでした。将来の夢を書く欄で、みんなが医者とかサッカー選手とか書いてる横で、僕は……書きたいことが、一つだけあった。でも、書けなかった。書いたら、殺されると思ったから。
「読みました」
「そうか」
一志は、庭を見た。
灯真は、立ち上がった。土を払わずに、父の前に立った。
「訊いてもいいですか」
「……」
「何を、書きたかったんですか」
冬の終わりの、夜だった。
八十五歳の老人は、長いこと、答えなかった。杖の先が、少しだけ、土にめり込んだ。
「……ロクを」
声が、かすれた。
「ロクを、作りたかった」
七十四年、この人が、誰にも言えなかった一行だった。




