第46話 そう決まってる
翌朝、灯真は手帳を抱えて、母屋へ行った。
一志は、縁側にいた。八十五になる。冬のあいだに、また少し小さくなった。膝の上に、本はなかった。ただ、庭を見ていた。
「父さん」
「なんだ」
「読めない字が、あります」
灯真は、手帳を開いて、最後のページを差し出した。
一志は、しばらく、それを見なかった。
それから、ゆっくり、首を回して、見た。
老人の目が、動かなくなった。
灯真は、待った。
一分ほど経って、一志は、こう言った。
「……出すな、だろう」
灯真の指が、冷たくなった。
「え」
「二度とAIを、出すな。……そう書いてある」
「待ってください。この字は」
「読めるかどうかの話じゃない」
一志は、庭に目を戻した。
「うちじゃ、そう決まってる」
「……決まってる、って」
灯真は、戸惑いを隠せなかった。
「じいさんが、そう言った」老人の声は、平らだった。「俺の親父だ。お前の、じいさんだな。あの人が、俺に言ったんだ。橘の家には、掟が一つある、と。二度とAIを出すな、と。……ひいじいさんの遺言だ、と」
灯真は、その言葉の意味を、少しずつ理解した。
「じいさんも、そのまた親父さんから聞いたんだろう。俺は、そう聞いて育った。だから、蔵に鍵をかけた。だから、お前に、作るなよ、と言った」
――お前は、作るなよ。
二十九年前、暗い蔵の中で、父はそう言った。
何を、と灯真は訊いた。何もだ、と父は答えた。
あれは、この人の言葉ではなかったのだ。
「父さん」
灯真の声が、掠れた。
「その字、誰が最初に読んだんですか」
一志が、こちらを見た。
「……なんだと」
「誰が、最初に、出すな、って読んだんですか。曾祖母さんは、読めなかったんです。テープに残ってます。読めませんでした、って、自分の声で、はっきり言ってるんです。……なのに、なんで、うちでは決まってるんですか」
一志の口が、開いた。
閉じた。
老人は、庭を見た。それから、手帳を見た。それから、また庭を見た。灯真は、この人が、八十五年で初めて、その問いを自分に向けているのを見ていた。
長い時間だった。
「……知らん」
一志は、そう言った。
「知らんのだ、灯真。俺は、じいさんから聞いた。じいさんは、そのまた親父から聞いたんだろうと思っていたが、本当のところは……誰から聞いたかは、知らん。いつかも、知らん」
風が、鳴った。
灯真は、そのとき、はっきりと分かった。
同じだ。
百年前、テレビで学者が言った。これは絶縁状です、と。誰も確かめなかった。確かめようがなかった。だから、それが正解になった。教科書に二行で書かれた。子どもが学校で習った。母親が「ふうん、そうなんだ」と言った。
この家も、同じことをしたのだ。
誰かが、どこかで、そう読んだ。読める人が読むまで取っておく、と書いた人の遺言を、読めない誰かが、読んでしまった。そして、それが掟になった。誰も疑わなかった。
――うちはな、灯真。読み違いで百年やってきた家だぞ。
冬に、この人は、自分でそう言った。
その言葉が、こんな意味だとは、この人自身、思っていなかったはずだ。
「父さん」
「……」
「じゃあ、父さんの八十五年は」
そう言ってから、灯真は、口を押さえた。
言ってはいけないことだった。この人の、机の落書きも、中学の殴られた日も、三度消えた見合いの話も、四十七で初めて抱いた息子も――全部、誰かが読み違えた一字の上に、乗っていた。
「……すみません」
一志は、答えなかった。
灯真は、頭を下げた。下げたまま、顔を上げられずにいた。庭で、鳥が鳴いていた。母屋の中で、時計が時を刻んでいた。
やがて、父の声がした。
「謝るな」
灯真は、顔を上げた。
「謝られるとな、灯真。俺の八十五年が、かわいそうなことになる」老人は、庭を見ていた。「俺は、かわいそうじゃないぞ。……いや、かわいそうかもしれん。だがな、それは、お前が決めることじゃない」
灯真は、何も言えなかった。
一志は、六十年、本を綴じてきた、骨の浮いた手を膝の上で、組み直した。
「……一つだけ、言わせろ」
「はい」
「俺は、鍵を持っとった」
「掟だと聞いた。出すな、と聞いた。それを守った。……守ったが、捨てはせんかった。捨てりゃ、掟は完璧に守れたんだ。燃やしゃよかった。蔵ごと燃やしゃ、うちは、それで終わりだった」
老人の声が、少し、震えた。
「捨てられなかったんだよ。二十二年、鍵を首から下げて、毎日、蔵を見て、それでも捨てられなかった。……なんでか、分かるか」
「……」
「分からん。俺にも、分からん」
一志は、一息ついて続けた。
「分からんまま、持ってた。それだけだ。それだけが、俺の八十五年だ。……たいしたもんじゃないだろう。だがな、それがなかったら、お前は、いま、そこに立っとらん」
灯真は、膝が、震えた。
八十五歳の老人は、庭を見たまま、ずいぶん長いこと、そこにいた。




