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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第15章 □すな

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45/51

第45話 □すな

 二百四十一人目を書き終えたのは、春の初めだった。


――以上である。私はもう、歩けない。


 最後の証言の下に、志道の字で、そう書いてあった。日付は、消失から二十五年目。九十歳の秋だった。


 灯真は、鉛筆を置いて、両手で顔をこすった。


 半年かかった。手帳一冊を、書き写すだけで。二百四十一人。医者。受付。配送。保育士。教員。漁師。看護師。無職。名前を伏せた人が、十七人いた。恨みの証言が、三十一あった。


 灯真のノートは、九冊になっていた。


 ページをめくった。白紙だった。次も、白紙。次も。


 三十ページほど、白紙が続いていた。


――歩けなくなって、それでも、まだ書くつもりだったんだ。


 灯真は、そう思った。九十で、証言の旅を終えて、まだ三十ページぶんの誰かを、この人は探していた。探したまま、間に合わなかった。


 灯真は、その白紙を、一枚ずつ、めくった。


 三十枚。書かれなかった誰か。


 会えなかった人たちだ、と灯真は思った。この国のどこかに、多くの言えないまま黙っていた人がいた。玄関先で塩を撒かれた男が、それでも訪ねるつもりだった何十軒が、どこかにあった。その人たちも、とっくに死んでいる。誰にも言わないまま。


 灯真は、白紙の最後の一枚を、めくった。


 そして、最後のページを開いた。


 一行だけ、あった。


 灯真は、じっと見つめた。


 字が、字になっていなかった。


 これまでの震える字とは、まるで違った。ペン先が、紙の上を滑って、途中で止まって、また少し進んだ跡。線が、どこも繋がっていない。インクが、切れたり、溜まったりしている。手が、もう、ほとんど動かなかった人の字だった。


 それでも、読めるところは、読めた。


――二度とAIを、□すな


 灯真は、その一行を、五分ほど、見ていた。


□の場所に、字がある。一字だけだ。線が二本と、点のようなものが、辛うじて残っている。前後は読める。「二度とAIを」と「すな」は読める。


 だが、□の場所にある、その一字だけが、読めない。


 灯真は、作業灯を持ってきた。角度をつけて、紙すれすれから光を当てた。息子の名前を出したくないといった女性の三行を読んだときのやり方だ。


 影が、できなかった。


 溝が、ない。この人の手には、紙を押す力が、もう残っていなかったのだ。インクが乗っただけで、紙は凹んでいない。読めない字は、永久に読めない。


 灯真は、それでも、二時間、粘った。


 光の角度を変えた。紙を裏から透かした。虫眼鏡を持ってきた。残った線を、鉛筆で写し取って、並べてみた。線が二本と、点のようなもの。それだけだ。この国の字で、線が二本と点(あるいは短い線?)で始まるものが、いくつあるか。


 出、消、汚、殺、返、探――いくらでもある。


 灯真は、鉛筆を置いた。


――読めません。


 曾祖母の声が、頭の中で鳴った。分かったふりをするほうが、罪でございましょう。読めないところは、読めないと言っておく。そうすれば、いつか、読める人が現れたときに、そこを見てくれます。


「……先生」


 灯真は、蔵の中で、そう言った。曾祖母のことを、いつのまにか、そう呼びそうになっていた。


「見てますよ。いま、見てます」


 見ている。読めない。


 灯真は、作業灯を消した。


――遺言です。


 ユイの日記に、その場面がある。七十五年前の春だ。桜が咲きかけていた。九十一歳の男が、万年筆を持って、いちばん後ろのページを開いて、七分かけて、この一行を書いた。ユイが「読ませてください」と言うと、老人は、いたずらっ子のような顔をして、こう答えた。


――いえ。これは、読める人が読むまで、取っておきます。


 灯真は、蔵の中で、笑いそうになった。


 読める人。七十五年、誰も読めていない。


 そのとき、思い出した。


 灯真は、テープの缶を、引き寄せた。八十七本目。曾祖母が、手帳の最後まで読み上げたはずの、いちばん最後の一本。


 夏に、一度、聞いている。あのときは、意味が分からなかった。ただの、老人の読みにくい字の話だと思って、次へ行った。


 灯真は、再生機に掛けて、終わりのほうへ送った。


 雑音。伸びた声。


「――以上である。私はもう、歩けない」


 千鶴が、志道の最後の言葉を読んでいた。


 そして、少し、間があった。


「――このあと、白いところが、三十ページほどございます」


 灯真の背中が、こわばった。


「――そのあとに、一行だけ、書いてございます。夫が、死ぬ二週間ほど前に、書いたものです。枕元で見ていた方のお話だと七分かかったそうです」


 テープが、伸びた。


「――読めません」


 灯真は、目を閉じた。


「――申し訳ございません。私には、読めないのでございます。一字だけ、どうしても。『……二度とAIを』と『すな』の間にある文字が、分かりません」


 千鶴の声は、そこで、一度、途切れた。


「――夫は、読める人が読むまで取っておく、と申しました。……その方に、申し上げます。私は、読めませんでした。読めないと、ここに、申し上げておきます」


 かちり、と音がして、テープが止まった。

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