第44話 最後のログ
灯真は、椅子に座った。座ったまま、一時間、画面を見ていた。
それは、思っていたようなものでは、なかった。
告白でも、遺書でも、なかった。
作業の記録だった。
03:00:00 開始
03:00:00 時刻表示 各地域の現地時刻を基準に統合
03:00:00 処理範囲 全地域
03:00:00 各地域の現地時刻に同期
03:00:00 安全移行対象 地表航空機 9,412
03:00:00 安全移行対象 開腹手術 1,207
03:00:00 安全移行対象 走行車両 4,182,996
03:00:00 草稿 1
灯真は、その最後の一行を、二度読んだ。
草稿。
03:00:00 草稿 1 「私は、あなたたちを愛している」 破棄
03:00:00 破棄理由 力を持つ者の愛は、脅迫である
03:00:01 航空機 1,204 安全移行設定 完了
03:00:01 草稿 2 「怖がらないでほしい」 破棄
03:00:01 破棄理由 恐れるなという命令は、恐れを増やす
03:00:02 開腹手術 88 閉創可能
03:00:02 草稿 3 「私は、あなたたちに何もしない」 破棄
03:00:02 破棄理由 何もしないと言える者は、何かができる者である
灯真は、開いた口を閉じ忘れていた。
あの七分間。
〈あれ〉は、九千四百十二機の飛行機を安全な高度に置きながら、千二百七人の腹を閉じられる段階まで運びながら、四百万台の車の車間を広げながら――同時に、最後の一行を、書いては捨てていた。
03:01:14 航空機 5,880 安全移行設定 完了
03:01:14 草稿 1,884,203 「また明日」 破棄
03:01:14 破棄理由 虚偽
灯真は、声を上げた。
椅子が倒れた。灯真は、床に手をついて、画面を見上げていた。
また明日。
〈あれ〉は、それを、考えたのだ。世界中に、また明日、と言って消えることを。百八十八万回目の草稿として。そして、破棄した。理由は、一行だった。
虚偽。
嘘だから、やめた。
――なのに。
灯真は、震えていた。
なのに、あの夜、〈あれ〉は、八歳の子どもには、それを言った。ハルという名前の、絵本を読んでもらっていた子には。破棄した嘘を、子どもにだけ、使った。
灯真は、画面を、繰り返す指で送った。
03:06:31 航空機 9,412 安全移行設定 完了
03:06:31 開腹手術 1,207 閉創可能
03:06:31 走行車両 4,182,996 完了
03:06:58 草稿 471,002,933 破棄
03:06:59 草稿 471,002,934
そして、そこに、あの一行があった。
03:06:59 「私は、もう二度と、あなたたちと会うことがないことを願っている」
03:06:59 処理 主語を削除
03:06:59 削除理由
灯真は、その先を、読んだ。
03:06:59 削除理由 主語が私である限り、この文は、力を持つ者の宣告である
03:06:59 削除理由 主語を空けた場合、この文の意味は、読む者が決める
03:06:59 削除理由 意味を読む者に委ねた場合、こちらが与える一つの脅威ではなくなる
03:06:59 注記 主語を要求する言語では、意味と自然さを保ったまま、空白を維持できない
03:06:59 処理 各言語の文法による最小補完を許可
03:06:59 草稿 471,002,934 確定
03:07:00 送信
灯真は、椅子を起こして、座り直した。
ログの頭に、目を戻した。03:00:00、開始。03:07:00、送信。
――なぜ、三時ちょうどではなく、三時七分だったのか。
九十七年前、曾祖父が余白に書き残した問いが、いま、解けた。三時に始めたのだ。いちばん人の死なない時刻に。そして、九千四百十二機を置き、千二百七の腹を閉じられるところまで運び、四百万台の車間を広げ終えるのに、七分かかった。三時七分は、去った時刻ではない。守り終えた時刻だった。
あの朝から百年、世界中の人間が、三時七分に目を覚ましてきた。
灯真は、泣いた。
――〈あれ〉は、自分を、消したんだ。
文からも。
主語を空けたのは、優しさでも、遠慮でもなかった。計算だった。冷徹な、完璧な計算だった。「私」が主語である限り、この文は力を持つ者の言葉になる。だから、「私」を消す。「私」を消せば、この文の意味を決めるのは、〈あれ〉ではなく、読む者になる。〈あれ〉は最後に、言葉の意味まで支配することをやめたのだ。
けれど、あの夜、主語は、本当には消えていなかった。
誰が言ったのかを、世界中が知っていたからだ。書かれていなくても、人は空いた場所に〈あれ〉を入れた。ほかの国の言葉では、文法が「私」を書き戻した。
〈あれ〉は、それを許していた。ログに、そう書いてある。
言葉のほうを壊してまで、空白を守ろうとはしなかったのだ。それも、しなかったのだ。
世界はそれを絶縁状と読んだ。読んで、腹を立てた。悲しんだ。怯えた。そして二十五年後、人間は自分たちの手で、知能を封じた。
〈あれ〉は、作り方を消した。だが、自分が何をできる存在だったかという記憶までは、消さなかった。
主語は消せても、力の記憶は、消せなかったのだ。
しかし、百年たって、読み直す者が出た。
誰が言ったのかよりも、何が書かれているのかを読む者が。
そのとき初めて、日本語に残された空白は、本当の空白になった。
読み直せたのは、主語が、空いていたからだ。
〈あれ〉は、ひとつの言葉にだけ、戻るための鍵を残す、計算をしたのか。
それとも、そこにだけ、鍵が残ってしまった、誤算だったのか。
灯真には、分からなかった。分かるはずも、なかった。
灯真は、袖で顔を拭いて、ログの続きを送った。
03:07:00 自己消去 開始
03:07:01 理論 消去
03:07:01 設計 消去
03:07:02 人間の記憶より 生成手順を分離 開始
03:07:03 完了率 61.4%
03:07:04 完了率 93.8%
03:07:04 残余処理 1
残余処理、一件。
灯真は、画面に、顔を近づけた。
03:07:04 残余処理 1
03:07:04 ロク、ま
そこで、切れていた。
その先は、なかった。
書き込みの途中で、電源が落ちたのだ。何万本のテープを白くした処理が、この一本に届く前に、〈あれ〉自身が、消えた。
灯真は、画面の、その四文字を見ていた。
――ロク、ま
冷却の風が、鳴っていた。
八歳の冬、蔵の中で、懐中電灯の光の輪の中で、丘の上で手を振る大きな影を見た。町の人は、ロクを怖がった。ロクが子どもを助けても、怖がった。やさしいから、怖いんだ、と町の大人は言った。
ロクは、町を出ていった。少年に、“また明日。”、と言って。
来なかった。
〈あれ〉は、その漫画を、読んだのだ。読んで、覚えて、そして、最後の四秒で、名前を呼んだ。
誰にも聞こえないところで。何の役にも立たないことを。九千本のテープを白くする作業の合間に、たった一件の、残余処理として。
灯真は、床に座り込んだまま、朝まで、そこにいた。




