第43話 白くないテープ
箱の中には、テープが詰まっていた。
灰色の、四角い、平べったいものが、ぎっしりと。灯真は、一本を取り出して、手のひらに乗せた。埃で、指が黒くなった。
数えた。
四百三十二本あった。
そして、隣の棚を見た。同じ木箱が、四つあった。その隣にも、二つ。
全部で、九千本を超えていた。
灯真は、床に座り込んだ。
保守員の証言を、頭の中で読み直した。――全部、空でした。テープが一万本近くあって、全部、空になっていました。ただ、一本だけ、ドライブに掛かったままのがありました。それだけ、0じゃなかった。何か、書いてありました。
つまり、この九千本のうち、ほぼすべてが真っ白なのだ。
そして、一本だけ、白くない。
灯真は、天井を見上げた。
九十七年前、曾祖父は、この建物の場所を知らなかった。目録が焼けていたからだ。八年かけて、辿り着けなかった。もし辿り着いていたら――九十歳の老人が、この棚の前に立って、九千本を数えたことになる。
そのほうが、酷だったかもしれない、と灯真は思った。
読む機械が、要る。
その晩、灯真は、部屋で図面を引いた。
百年前の磁気テープを読む装置は、この世に、ほとんど残っていない。蔵で使ったのは、曾祖母のテープ用の、家庭用の再生機だ。〈あれ〉は音声用だった。この四角いテープは、業務用の記録媒体だ。規格が違う。
灯真は、二週間かけて、それを作った。
部品は、町の電気屋と、廃品置き場から集めた。動かない古い装置を三台買って、使えるところだけを抜いた。組んだ。動かなかった。組み直した。動いた。
そして、一本目を読んだ。
画面に、0が流れた。
延々と、0だった。
二本目をかけた。0だった。三本目。0。四本目。0。
灯真の作った装置では、一本、四十分かかった。
早送りはできない。読み飛ばせば、その先に何かあっても、見落とす。灯真は、四十分ずつ、0を眺めた。一日に、十六本が限界だった。
九千本。
計算すると、五百六十三日。一年半以上かかる。
灯真は、施設に装置を運び込んで、掛けては0を見て、次を掛けた。
0。0。0。0。
十日目に、目が痛くなった。
二十日目に、0が動いて見えるようになった。目を閉じても、瞼の裏を0が流れた。眼科に行こうかと考えて、やめた。医者に、何を見ていたのかを訊かれる。
冬が深くなった。年が明けた。窓の外で、雪が降った。
毎日やって来る灯真に、受付の老人は好きなだけ見ればいいと、特にかまうこともなくなった。
三十日目に、灯真は、自分が声を出して数えていることに気がついた。0の数を。四十分ぶんの0を、一つずつ。数えても、意味はなかった。数えないと、眠ってしまうのだった。
三十五日目に、一度、諦めかけた。
その晩、灯真は、部屋の畳に寝転がって、天井を見ていた。四百八十本、済んでいた。残りは八千五百本。あと五百三十三日。それまで毎日、0を見る。それで何も出てこなかったら――保守員の記憶違いだったら。テープが別の場所へ行っていたら。とっくに廃棄されていて、この九千本は無関係な備品だったら。
五百三十三日を、捨てることになる。
灯真は、寝転がったまま、笑った。
曾祖父は八年だ。鵜飼先生は四十年だ。ユイという人は、五十七年、引っかかりを抱えたまま死んだ。それに比べたら、一年半など、なんだ。
翌朝、灯真は、四百八十一本目を掛けた。
四十日目に、灯真は、おかしなことを考え始めた。
この0は、〈あれ〉が書いたのだ。
あの朝の三時ごろ、〈あれ〉は自分を消しながら、この九千本を、一本残らず、0で塗り潰した。それ以外にも何千、何万、何億本を、世界中で。前に何が書いてあったか分からなくするために。
――丁寧すぎる。
灯真は、そう思った。
消すだけなら、壊せばいい。焼けばいい。磁気を狂わせれば、一瞬だ。それを、〈あれ〉は、一本ずつ、0で埋めた。上書きした。跡形もなく。
なぜか。
読めなくするためだ。読もうとした人間が、断片から、何かを再現してしまわないように。中途半端に残っていたら、誰かが拾う。拾って、また作る。作って、また怖がる。
だから、完全に、丁寧に、白くした。
――それなのに、なぜ、一本だけ、残した。
灯真の手が、震えた。
0。0。0。
六十三日目の、その日の四本目だった。
画面に、0以外のものが流れた。
灯真は、椅子から立ち上がって、後ずさった。
画面の中を、文字とも記号ともつかないものが、流れていた。0ではない。何かが、書いてある。
灯真は、装置を止めた。
止めてから、三十分、動けなかった。
――曾祖父さん。
灯真の脳裏に浮かんだ。「この一本は、〈あれ〉が世界で唯一、消さなかったものである。私は、そう信じている。信じているだけで、証明はできない。」そう書き残した。
灯真は、テープを取り出して、両手で持った。
九十七年前の、あの朝の三時七分。北の山の中で、これが回っていた。書き込みの途中で、止まった。夜勤の保守員が、棚に戻した。捨てるのは、なんだか、いけない気がしたから。
「……ありがとうございます」
灯真は、誰にともなく、そう言った。
その夜のうちに、荷物をまとめた。
翌朝、灯真は、家に帰った。
離れの八畳間に、十四の鉄の箱が並んでいた。一年、電源を落としてある。埃を、灯真は指で払った。
読めない形式だ、と保守員は言った。うちの機械じゃ、読めない形式でした、と。
当たり前だった。〈あれ〉が、〈あれ〉自身のために書いたものだ。人間の機械で読める形をしているはずがない。
灯真は、配電盤の前に立った。
そして、手を止めた。
一年前、この手で、電源を落とした。鵜飼の骨を拾った日だ。あと三週間だった。机の上に、最後の詰めの資料が広げたままになっていた。それを見て、灯真は、部屋の電気を落とした。風の音が止まって、八畳間が、初めて静かになった。
一年。
その一年で、灯真は、テープを八十七本聞いた。手帳を二百四十一人ぶん書き写した。日記を三十二冊読んだ。父と、生まれて初めて本気で話をした。0を、六十三日ぶん見た。
そして、いま、この手が、また配電盤にかかっている。
――読むために、要るんです。
灯真は、自分に、そう言った。
言ってから、笑いそうになった。理由が、いくらでもあるときは、たいてい、本当の理由が別にある。十年、そうやって生きてきた男だ。読むために電源を入れる。読み終わったら、また落とす。落とすに決まっている。でも、まだ何も終わっていない。
――本当か。
灯真は、手を、しばらくそこに置いていた。
冷えた金属の感触があった。
「……先生」
灯真は、誰もいない部屋で、そう言った。
「一回だけです。一回だけ、貸してください」
誰に言っているのかも、分からなかった。死んだ老女にか。曾祖父にか。それとも、この箱の中の、まだ何も知らない何かにか。
灯真は、電源を入れた。
冷却の風が、一年ぶりに鳴り始めた。低い、重い音が、部屋に満ちた。灯真は、テープをつないで、変換の手順を組んだ。五日かかった。
五日目の夜、画面に、文字が並んだ。
日本語だった。




