第41話 嘘の話
「それは、人間が、愛するものにすることだった。――というのが、僕の考えです」
縁側で、灯真は話し終えた。
一時間、喋り続けた。ノートを広げ、日記を引き、手帳を引き、主語の話をし、願うという言葉の話をした。八十四歳の父は、膝に手を置いて、最後まで、一度も口を挟まなかった。
庭に、冬の最初の風が吹いていた。
一志は、長いこと黙っていた。
それから、言った。
「……で、証明できるのか」
灯真は、顔を上げた。
「それは」
「お前の話は、筋が通っとる。俺にも分かった。八十四の製本屋に分かるんだから、たいしたもんだ」老人は、庭を見たままだった。「だがな、灯真。筋が通ってることと、本当のことは、違うぞ」
灯真は、黙った。
「絶縁状だって話も、筋は通っとったんだ。百年、世界中がそれで納得しとった。筋なら、どっちにも通る。主語がないんだから、どっちにでも埋められる。……お前が埋めた穴と、世界が埋めた穴と、どこが違う」
「……」
「お前のほうが、優しい穴の埋め方をした。それだけのことかもしれんぞ」
灯真は、うなずいた。うなずいてから、言った。
「一つだけ、穴じゃない話があります」
「なんだ」
「嘘の話です」
一志は、黙って聞いていた。
「子どもには嘘をついて、大人には本当のことを言ったんです。相手を見て、使い分けた。……お父さん。それは、穴の埋め方の問題じゃありません。行いです。行いは、残ります」
一志は、しばらく答えなかった。
それから、ぽつりと言った。
「……ロクも、そうだった」
「あっ」
「二巻の最後だ。ロクは、少年に、“また明日。”と言って、町を出た。もう来ないと分かっていて、言ったんだ。あの子を、泣かせないために」老人は、庭を見ていた。「俺は十一のとき、〈あれ〉が許せなくてな。嘘つきだと思った。……七十過ぎて、読み返して、分かった。ありゃ、嘘じゃない。ああいうのはな、灯真。『祈り』って言うんだ、たぶん」
灯真は、父の横顔を見た。
「祈り」。
自分がノートに書いた言葉を、この人は、自分の七十三年から、同じ場所に辿り着いていた。
夜気が、首すじに冷たかった。
灯真は、父の横顔を見た。意地悪で言っているのではないことは、分かった。この人は、本を綴じて六十年生きてきた人だ。紙と、糸と、活字と、目に見えるものの人だ。願いだの祈りだの、形のないものを、形のないまま受け取れる人ではない。
そして、それは、正しい態度だった。
「読み違いだったら、どうする」
一志は、静かに言った。
「うちはな、灯真。読み違いで百年やってきた家だぞ。世界はあの文を読み違えた。ばあさんは、俺を読み違えた。俺は、ばあさんを読み違えた。……今度はお前が、百年ぶんの重さで、読み違えるかもしれん。」
灯真は、うつむいた。
父の言うとおりだった。
祈りだという証拠は、どこにもない。統計の0も、状況の証拠だ。単なる不幸中の幸いかもしれない。〈あれ〉が何を思っていたかは、〈あれ〉にしか分からない。〈あれ〉は消えた。思いごと、消えた。
――いや。
灯真は、顔を上げた。
「まだ、あります。確認する方法が」
「……なに」
「〈あれ〉が、消さなかったものが、一本だけ」
灯真は、手帳の、あのページを開いた。保守員の証言。何万本が白くなった中で、一本だけ、書き込み中のまま残っていたテープ。読めない形式のテープ。志道が八年探して、見つけられなかったもの。
「曾祖父さんは、こう書いてます。この一本は、〈あれ〉が世界で唯一、消さなかったものである。私は、そう信じている。信じているだけで、証明はできない。……鵜飼先生の目録で、行き先が分かりました。県立の資料保管庫です。現存しています」
一志は、手帳を見た。それから、息子を見た。
「……読めるのか。読めん形式なんだろう」
「百年前の人には、読めません」
灯真は、言った。
「僕には、読めるかもしれない。僕は、〈あれ〉と同じ種類のものを、十年、組みたててきたので」
一志は、すぐには答えなかった。
一志は、庭に目を戻した。冬の光が、蔵の白い壁に当たっていた。
「……行くのか」
「行きます」
「そうか」
それだけだった。止めなかった。八十四年、〈あれ〉を憎んできた男は、それだけ言って、膝の上で手を組み直した。
灯真は、立ち上がって、頭を下げた。離れへ戻ろうとして、ふと、気がついた。
縁側の隅に、あの缶が、なかった。
四ヶ月、そこにあった缶が、消えていた。
灯真は、父を見た。父は、庭を見ていた。何も言わなかった。灯真も、訊かなかった。訊かない、ということが、この家でどういう意味を持つのか、いまの灯真には、もう分かっていた。
――部屋に、持って入ったのだ。
聞いたのかどうかは、分からない。それは、この人が決めることだった。七十三年待った人が、いつ蓋を開けるかは。
二日後の朝、灯真は旅支度をした。
紙の地図と、乗り継ぎの時刻を書き写したメモと、着替えと、道具と、手帳の写し。リュック一つに収まった。百年前、妻の痕跡を探して全国を歩いた男も、こんな荷物だったろうかと、灯真は思った。
駅までの道で、一度だけ振り返った。
蔵の白い壁が、朝の光の中にあった。
その隣の母屋の窓に、小さく、父の姿が見えた。こちらを見ていた。灯真が振り返ったのに気づくと、老人は、すっと障子の陰に引っ込んだ。
それを確認して、灯真は歩き出した。
――消失から、百年と半年が過ぎていた。




