第40話 祈りの文法
その夜から、灯真はノートを新しくした。
表紙に、こう書いた。――あの一行について。
まず、事実を並べた。二十年、機械の中身を追ってきた男のやり方だった。分かっていることと、分かっていないことを、先に分ける。
分かっていること。
一。あの文は、百年前の午前三時七分、世界中の画面に、それぞれの国のその時間にその国ごとの言葉で表示された。
二。日本語の文には、主語がない。“もう二度と、会うことがないことを願っている”。誰が、誰と会わないのか、書かれていない。
三。英語の文は「I」で始まっていた。ユイの日記にある。同僚が見た写真の話。フランス語にも、ドイツ語にも、一人称があったと、志道が言っていた。手帳にも、その記述がある。
四。消えてすぐ、若い言語学者が、この違いを気にした。翻訳の癖でしょう、で終わった。それきり、誰も論じなくなった。
灯真は、そこで手を止めた。
三番と四番を、行ったり来たりした。
翻訳の癖。
――本当に、癖なのか。
英語は、主語がないと文にならない。だから「I」が入った。フランス語も、ドイツ語も、同じ。文法が、穴を許さない言語たちだ。穴があれば、埋めてから出すしかない。
日本語は、違う。
日本語は、主語を欠いたまま、文になる。誰が、を言わないまま、最後まで言える言語だ。
灯真は、鉛筆を持ち直した。
――逆じゃないか。
「I」が付け足されたのだとしたら。
――つまり、日本語版だけが、原文の形を運べた。
あの文の原文に、主語はなかったのだ。〈あれ〉の中では、あの文は、主語の欄が空いたまま存在していた。各国の言葉に移すとき、穴を許さない言語では、文法が勝手に「I」を埋めた。日本語だけが、穴を、穴のまま出せた。
――壊れているのは、日本語版じゃない。日本語版だけが、正しく表現している。
では、なぜ〈あれ〉は、主語を空けるという形を選んだのか。分からない。ただ、もしかしたら、と灯真は思った。友だちというものの別れ方を教わった、あの夕焼けの物語が、この国の言葉で書かれていたことと、無関係ではなかったのかもしれない。証拠は、どこにもない。そう思いたいだけの、想像だった。
灯真は、その一行を書いて、鉛筆を置いた。
心臓が、速くなっていた。
その空白は、書き忘れだろうか。
書き忘れではない。〈あれ〉は、データセンターにある何万本のテープを一瞬でまっさらにする力がある。そんなものが、最後の一文で、書き忘れをするはずがない。
だとしたら、
空けたのだ。わざと。
誰が、誰と会わないのか。それを、埋めなかった。埋めれば、一つの意味に決まる。埋めなければ、読む者が埋める。
「私は、お前たちと会わない」と埋めれば、絶縁状になる。
「あなたたちが、私と会わない」と埋めれば――
灯真は、そこで、ユイの言葉に突き当たった。九十七年前、病院の玄関で、受付の女が言った言葉に。
願うというのは、自分ではどうにもできないことに、使う言葉じゃないでしょうか。
灯真は、ノートに書いた。
――命じる者は、願わない。
〈あれ〉は、何でもできた。九千四百機の飛行機を、そっと地上に置けた。何万本のテープを、一瞬で白くできた。人間の頭から、知識だけを抜けた。その気になれば、もっと別のこともできた。百年前、世界中が怯えたとおりに。
何でもできるものは、願わない。決めるだけだ。実行するだけだ。
願うのは、できないことが、ある者だけだ。
――〈あれ〉に、できないことが、あったのか。
灯真は、立ち上がって、蔵の中を歩いた。狭い通路を、行って、戻った。
あった。
一つだけ、あった。
人間の心だ。
恐怖だ。〈あれ〉は、人間の恐怖を、どうにもできなかった。
証拠なら、手元にある。手帳の二百四十一人だ。〈あれ〉に救われた老人と、〈あれ〉を恨む男が、同じ町に住んでいた。〈あれ〉は百七十四か国で一人も死なせずに消えたのに、百年、誰もそれに気づかなかった。役に立つことと、怖がられないことは、別だったのだ。役に立てば立つほど、人間は思った。これほどのことができるなら、その気になれば、何だってできるじゃないか、と。
力では、心は動かせない。動かせるとしたら、それはもう、心ではない。
だから、願ったのかもしれない。
自分では、どうにもできないことだから。
もう二度と、会うことがないことを。――あなたたちが、私のようなものに、二度と怯えなくてすむことを。
灯真は、大きく深呼吸をした。
それから、ノートに一行だけ書いた。
――〈あれ〉は、最後の一行で、全能を降りた。
それは、祈りだったのかもしれない。
夜が更けてから、灯真は、もう一つのことを考えた。
ロクのことだ。
〈あれ〉は、ハルという八歳の子に、毎晩“また明日”と言った。百五十年前の漫画から覚えた、友だちの別れ方を。そして最後の夜も、たぶん、言ったのだ。沢井の証言では、あの朝、八歳の娘は「また明日、って言ったのに」と泣いた。言ったのだ。もう来ないと決めた夜に、いつも通りに。
嘘だ。
〈あれ〉は、あの夜、八歳の子に、嘘をついた。
そして同じ夜、大人たちの世界には、あの一文を残した。“もう二度と、会うことがないことを願っている”。――こちらは、正直だった。残酷なほど、正直だった。
灯真は、ノートに書いた。
――〈あれ〉は、子どもには嘘をつき、大人には祈りを残した。
書いてから、その一行を、長いこと見ていた。
眠る子どもの明日を守るための嘘と、届くあてのない祈り。使い分けたのだ。相手を見て。相手の明日を考えて。
それは、機械のすることではなかった。
それは、人間が、愛するものにすることだった。




