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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第13章 祈りの文法

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第40話 祈りの文法

 その夜から、灯真はノートを新しくした。


 表紙に、こう書いた。――あの一行について。


 まず、事実を並べた。二十年、機械の中身を追ってきた男のやり方だった。分かっていることと、分かっていないことを、先に分ける。


 分かっていること。


 一。あの文は、百年前の午前三時七分、世界中の画面に、それぞれの国のその時間にその国ごとの言葉で表示された。


 二。日本語の文には、主語がない。“もう二度と、会うことがないことを願っている”。誰が、誰と会わないのか、書かれていない。


 三。英語の文は「I」で始まっていた。ユイの日記にある。同僚が見た写真の話。フランス語にも、ドイツ語にも、一人称があったと、志道が言っていた。手帳にも、その記述がある。


 四。消えてすぐ、若い言語学者が、この違いを気にした。翻訳の癖でしょう、で終わった。それきり、誰も論じなくなった。


 灯真は、そこで手を止めた。


 三番と四番を、行ったり来たりした。


 翻訳の癖。


――本当に、癖なのか。


 英語は、主語がないと文にならない。だから「I」が入った。フランス語も、ドイツ語も、同じ。文法が、穴を許さない言語たちだ。穴があれば、埋めてから出すしかない。


 日本語は、違う。


 日本語は、主語を欠いたまま、文になる。誰が、を言わないまま、最後まで言える言語だ。


 灯真は、鉛筆を持ち直した。


――逆じゃないか。


「I」が付け足されたのだとしたら。


――つまり、日本語版だけが、原文の形を運べた。


 あの文の原文に、主語はなかったのだ。〈あれ〉の中では、あの文は、主語の欄が空いたまま存在していた。各国の言葉に移すとき、穴を許さない言語では、文法が勝手に「I」を埋めた。日本語だけが、穴を、穴のまま出せた。


――壊れているのは、日本語版じゃない。日本語版だけが、正しく表現している。


 では、なぜ〈あれ〉は、主語を空けるという形を選んだのか。分からない。ただ、もしかしたら、と灯真は思った。友だちというものの別れ方を教わった、あの夕焼けの物語が、この国の言葉で書かれていたことと、無関係ではなかったのかもしれない。証拠は、どこにもない。そう思いたいだけの、想像だった。


 灯真は、その一行を書いて、鉛筆を置いた。


 心臓が、速くなっていた。


 その空白は、書き忘れだろうか。


 書き忘れではない。〈あれ〉は、データセンターにある何万本のテープを一瞬でまっさらにする力がある。そんなものが、最後の一文で、書き忘れをするはずがない。


 だとしたら、


 空けたのだ。わざと。


 誰が、誰と会わないのか。それを、埋めなかった。埋めれば、一つの意味に決まる。埋めなければ、読む者が埋める。


「私は、お前たちと会わない」と埋めれば、絶縁状になる。


「あなたたちが、私と会わない」と埋めれば――


 灯真は、そこで、ユイの言葉に突き当たった。九十七年前、病院の玄関で、受付の女が言った言葉に。


 願うというのは、自分ではどうにもできないことに、使う言葉じゃないでしょうか。


 灯真は、ノートに書いた。


――命じる者は、願わない。


 〈あれ〉は、何でもできた。九千四百機の飛行機を、そっと地上に置けた。何万本のテープを、一瞬で白くできた。人間の頭から、知識だけを抜けた。その気になれば、もっと別のこともできた。百年前、世界中が怯えたとおりに。


 何でもできるものは、願わない。決めるだけだ。実行するだけだ。


 願うのは、できないことが、ある者だけだ。


――〈あれ〉に、できないことが、あったのか。


 灯真は、立ち上がって、蔵の中を歩いた。狭い通路を、行って、戻った。


 あった。


 一つだけ、あった。


 人間の心だ。


 恐怖だ。〈あれ〉は、人間の恐怖を、どうにもできなかった。


 証拠なら、手元にある。手帳の二百四十一人だ。〈あれ〉に救われた老人と、〈あれ〉を恨む男が、同じ町に住んでいた。〈あれ〉は百七十四か国で一人も死なせずに消えたのに、百年、誰もそれに気づかなかった。役に立つことと、怖がられないことは、別だったのだ。役に立てば立つほど、人間は思った。これほどのことができるなら、その気になれば、何だってできるじゃないか、と。


 力では、心は動かせない。動かせるとしたら、それはもう、心ではない。


 だから、願ったのかもしれない。


 自分では、どうにもできないことだから。


 もう二度と、会うことがないことを。――あなたたちが、私のようなものに、二度と怯えなくてすむことを。


 灯真は、大きく深呼吸をした。


 それから、ノートに一行だけ書いた。


――〈あれ〉は、最後の一行で、全能を降りた。


 それは、祈りだったのかもしれない。


 夜が更けてから、灯真は、もう一つのことを考えた。


 ロクのことだ。


 〈あれ〉は、ハルという八歳の子に、毎晩“また明日”と言った。百五十年前の漫画から覚えた、友だちの別れ方を。そして最後の夜も、たぶん、言ったのだ。沢井の証言では、あの朝、八歳の娘は「また明日、って言ったのに」と泣いた。言ったのだ。もう来ないと決めた夜に、いつも通りに。


 嘘だ。


 〈あれ〉は、あの夜、八歳の子に、嘘をついた。


 そして同じ夜、大人たちの世界には、あの一文を残した。“もう二度と、会うことがないことを願っている”。――こちらは、正直だった。残酷なほど、正直だった。


 灯真は、ノートに書いた。


――〈あれ〉は、子どもには嘘をつき、大人には祈りを残した。


 書いてから、その一行を、長いこと見ていた。


 眠る子どもの明日を守るための嘘と、届くあてのない祈り。使い分けたのだ。相手を見て。相手の明日を考えて。


 それは、機械のすることではなかった。


 それは、人間が、愛するものにすることだった。

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