第39話 三十二冊
冬が来る前に、灯真はユイの日記に手をつけた。
三十二冊あった。段ボール三箱ぶん。表紙に、年が書いてある。四十七年前に、この蔵に運び込まれたときのままだった。父が三往復して運んだ箱だと、灯真は知っている。
一冊目の、最初のページを開いた。
「今日あったことを、書いておこうと思う。三日前まであった暮らしのこと。あの声のこと。忘れそうだから、ではない。覚えているのに、確かめる場所がないから」
百年前の、消失から三日目の文字だった。
鉛筆の字は、思ったより読みやすかった。志道の字とは違う。震えていない。受付で何万枚も番号札を書いた人の、丸くて、速い字だった。
この人の声なら、知っている。
テープの、二番目の証言。絶縁状に、願うなんて書くでしょうか、と言った声。この証言だけ老婦人の声ではなかった。事情は分からないが、その時、本人がその場にいたんじゃないかと思った。テープが伸びて、少し低くなった声だったが、老婦人より若かった。あれは五十六のときの声だ。手帳の日付から、そう分かる。
その人の、五十年ぶんの字が、いま、目の前に積んである。
声で会った人の、字に会う。妙な言い方だが、それがいちばん正確だった。灯真は、読み始めた。
止まらなくなった。
手帳は、証言の集まりだった。テープは、その声だった。どちらも、あの出来事のために編まれたものだ。だが、この日記は違った。ここには、生活が入っていた。
夫が地図の前で「ちょっとだけ、楽しいんだ」と言ったこと。角の欠けた番号札を束の下に隠したこと。銀行の行列。偽物の「AIの欠片」を買った同僚。夜勤明けの看護師が「三時七分に目が覚める」と言ったこと。テレビの学者が「これは絶縁状です」と断言した日の夕飯が、コロッケだったこと。
コロッケ、と灯真は思った。
百年前のその日、世界の意味が決められていく横で、この人はコロッケを揚げていた。歴史は、そういうものの中で起きたのだ。教科書の二行の後ろには、この三十二冊がある。そう思った。
読み進めるうちに、灯真は、妙なことに気がついた。
この人は、疑い続けている。
「絶縁状だとテレビが言っていた。でも、絶縁状に『願う』なんて書くだろうか」
三日目の日記にもう、それがある。以後、何年かおきに、同じ引っかかりが顔を出す。誰にも言えないまま、五十年。夫にも言えないまま。学がないから、と自分で自分を引っ込めながら、それでも、書くことだけは、やめていない。
「橘という人が、テレビで責められていた。でも、あの人は探している人の顔をしていた。犯人は、探さないと思う」
灯真は、そのページに、しばらく手を置いていた。
まだ誰も、志道を信じていなかった年だ。世界中が犯人と呼んでいた年だ。病院の受付の人が、洗濯物をたたみながら、たったひとり、テレビの中の老人の目を見ていた。
日記は、老いていった。
字が、少しずつ大きくなる。行が、少しずつ減る。夫の死の年は、三日、白紙が続いた。そのあとに、あの一行がある。
「でも、あの人は、財布に切り抜きを入れていた。言葉にしないだけで、あの人はとっくに、そこにいた」
三十二冊目は、薄かった。
最後の年のものだ。八十七歳の字は、また少し小さくなっていた。力が入らなくなったのだと、灯真にも分かった。
最後のページを、開いた。
日付と、二行。
「五十七年前の朝、あの一行を読んだ。ずっと引っかかったまま、ここまで来た。分からないまま、終わる」
そして。
「もし、いつか、もう一度、会えるなら。訊いてみたい。――どうして、消えたんですか。それだけ、訊いてみたい」
灯真は、蔵の中で、長いこと動かなかった。
この人は、答えを聞かずに死んだ。五十七年、引っかかりを抱えて、誰にも言えないまま、最後のページに、それを書いて死んだ。
――訊いてみたい。
この家の百年と、同じだった。訊かない。訊かれない。訊けないまま、みんな死んでいく。曾祖母も、この人も、志道も。
灯真は、声に出して言った。
「僕が、訊きます」
言ってから、自分の言葉の意味を、考えた。
訊く。誰に。〈あれ〉は、百年前に消えた。離れの箱は、まだ答えない。答えるようになったとして、それは、〈あれ〉ではない。新しい、別のものだ。ユイの問いを、届ける先は、この世のどこにもない。
――いや。
灯真は、日記の最後のページを、もう一度見た。
どうして、消えたんですか。それだけ、訊いてみたい。
訊く、ということの半分は、答えを聞くことだ。だが、もう半分は、違う。問いを、問いのまま、消さずに持っていることだ。この人は、五十七年、それをやった。誰にも言えないまま、書き続けることで、問いを生かし続けた。
だったら、続きは、できる。
答えが返る日が来るかどうかは、分からない。それでも、この問いを、次に消えさせないことなら、できる。
蔵の中は、静かだった。誰も、聞いていなかった。それでよかった。曾祖母がテープに吹き込んだ言葉も、誰が聞くか分からないまま、吹き込まれたのだから。




