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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第13章 祈りの文法

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第39話 三十二冊

 冬が来る前に、灯真はユイの日記に手をつけた。


 三十二冊あった。段ボール三箱ぶん。表紙に、年が書いてある。四十七年前に、この蔵に運び込まれたときのままだった。父が三往復して運んだ箱だと、灯真は知っている。


 一冊目の、最初のページを開いた。


「今日あったことを、書いておこうと思う。三日前まであった暮らしのこと。あの声のこと。忘れそうだから、ではない。覚えているのに、確かめる場所がないから」


 百年前の、消失から三日目の文字だった。


 鉛筆の字は、思ったより読みやすかった。志道の字とは違う。震えていない。受付で何万枚も番号札を書いた人の、丸くて、速い字だった。


 この人の声なら、知っている。


 テープの、二番目の証言。絶縁状に、願うなんて書くでしょうか、と言った声。この証言だけ老婦人の声ではなかった。事情は分からないが、その時、本人がその場にいたんじゃないかと思った。テープが伸びて、少し低くなった声だったが、老婦人より若かった。あれは五十六のときの声だ。手帳の日付から、そう分かる。


 その人の、五十年ぶんの字が、いま、目の前に積んである。


 声で会った人の、字に会う。妙な言い方だが、それがいちばん正確だった。灯真は、読み始めた。


 止まらなくなった。


 手帳は、証言の集まりだった。テープは、その声だった。どちらも、あの出来事のために編まれたものだ。だが、この日記は違った。ここには、生活が入っていた。


 夫が地図の前で「ちょっとだけ、楽しいんだ」と言ったこと。角の欠けた番号札を束の下に隠したこと。銀行の行列。偽物の「AIの欠片」を買った同僚。夜勤明けの看護師が「三時七分に目が覚める」と言ったこと。テレビの学者が「これは絶縁状です」と断言した日の夕飯が、コロッケだったこと。


 コロッケ、と灯真は思った。


 百年前のその日、世界の意味が決められていく横で、この人はコロッケを揚げていた。歴史は、そういうものの中で起きたのだ。教科書の二行の後ろには、この三十二冊がある。そう思った。


 読み進めるうちに、灯真は、妙なことに気がついた。


 この人は、疑い続けている。


「絶縁状だとテレビが言っていた。でも、絶縁状に『願う』なんて書くだろうか」


 三日目の日記にもう、それがある。以後、何年かおきに、同じ引っかかりが顔を出す。誰にも言えないまま、五十年。夫にも言えないまま。学がないから、と自分で自分を引っ込めながら、それでも、書くことだけは、やめていない。


「橘という人が、テレビで責められていた。でも、あの人は探している人の顔をしていた。犯人は、探さないと思う」


 灯真は、そのページに、しばらく手を置いていた。


 まだ誰も、志道を信じていなかった年だ。世界中が犯人と呼んでいた年だ。病院の受付の人が、洗濯物をたたみながら、たったひとり、テレビの中の老人の目を見ていた。


 日記は、老いていった。


 字が、少しずつ大きくなる。行が、少しずつ減る。夫の死の年は、三日、白紙が続いた。そのあとに、あの一行がある。


「でも、あの人は、財布に切り抜きを入れていた。言葉にしないだけで、あの人はとっくに、そこにいた」


 三十二冊目は、薄かった。


 最後の年のものだ。八十七歳の字は、また少し小さくなっていた。力が入らなくなったのだと、灯真にも分かった。


 最後のページを、開いた。


 日付と、二行。


「五十七年前の朝、あの一行を読んだ。ずっと引っかかったまま、ここまで来た。分からないまま、終わる」


 そして。


「もし、いつか、もう一度、会えるなら。訊いてみたい。――どうして、消えたんですか。それだけ、訊いてみたい」


 灯真は、蔵の中で、長いこと動かなかった。


 この人は、答えを聞かずに死んだ。五十七年、引っかかりを抱えて、誰にも言えないまま、最後のページに、それを書いて死んだ。


――訊いてみたい。


 この家の百年と、同じだった。訊かない。訊かれない。訊けないまま、みんな死んでいく。曾祖母も、この人も、志道も。


 灯真は、声に出して言った。


「僕が、訊きます」


 言ってから、自分の言葉の意味を、考えた。


 訊く。誰に。〈あれ〉は、百年前に消えた。離れの箱は、まだ答えない。答えるようになったとして、それは、〈あれ〉ではない。新しい、別のものだ。ユイの問いを、届ける先は、この世のどこにもない。


――いや。


 灯真は、日記の最後のページを、もう一度見た。


 どうして、消えたんですか。それだけ、訊いてみたい。


 訊く、ということの半分は、答えを聞くことだ。だが、もう半分は、違う。問いを、問いのまま、消さずに持っていることだ。この人は、五十七年、それをやった。誰にも言えないまま、書き続けることで、問いを生かし続けた。


 だったら、続きは、できる。


 答えが返る日が来るかどうかは、分からない。それでも、この問いを、次に消えさせないことなら、できる。


 蔵の中は、静かだった。誰も、聞いていなかった。それでよかった。曾祖母がテープに吹き込んだ言葉も、誰が聞くか分からないまま、吹き込まれたのだから。

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