第38話 右の引き出し
灯真は、その夜、離れへ帰らなかった。
蔵の床に座って、朝まで、その見開きを見ていた。
九十七年前の男が、十九年かけて、探して、見つけられなかった。統計を十一年かけて集めた男だ。二百四十一人を訪ね歩いた男だ。その男が、負けた。
そして、こう書いた。――探してほしい、とは書かない。
灯真は、その一行が、いちばん堪えた。
この人は、最後まで、誰かの人生を勝手に決めなかった。読ませたい。探させたい。それでも、書けば呪いになると知っていた。だから、事実だけを置いて、死んだ。
――父さんに、そっくりだ。
灯真は、そう思った。
置いとけ、と父は言った。捨てはしない、と父は言った。優しさじゃない、と父は言った。この家の男は、みんな、同じことをする。手を出さない。決めない。ただ、置いておく。
そして、次の代が、勝手に拾う。
――夜が明けた。
灯真は、立ち上がった。膝が、鳴った。三十七の体が、一晩で、ずいぶん重くなっていた。
蔵を出て、庭を横切って、離れへ戻った。箱の部屋の前を通り過ぎた。冷却の風は、止まったままだった。半年、電源は落としてある。
その奥の、六畳間へ入った。
鵜飼静の部屋だった。
老女が死んで、半年になる。灯真は、この部屋を片付けていない。片付けようとして、手が止まって、そのままにしてある。布団は畳んである。本棚には、本が詰まっている。机がある。
灯真は、机の前に立った。
左の引き出しには、各国の論文が入っている。死ぬ三日前に、鵜飼が開けさせたやつだ。三つの国で、似たことをやっています。早くて五年、遅くとも十年でしょう。
灯真は、右の引き出しを見た。
一度も、開けたことがなかった。
ノートが、詰まっていた。
分厚い、大学ノートだった。数えると、二十冊あった。表紙に、年が書いてある。いちばん古いのが、四十年前だった。
灯真は、一冊目を開いた。
そして、動けなくなった。
目録だった。
日付。施設名。所在地。移管先。移管年。備考。――びっしりと、几帳面な、小さな字で。何百行もあった。ページをめくると、また何百行。次のページも、次も。
灯真は、二冊目を開いた。同じだった。三冊目も。
四十年ぶんの、目録だった。
灯真は、床に座り込んだ。
この人は、司書だった。四十年、本を守った。棚の裏から一冊落ちてきて、それを拾って、人生が変わった。三十年で一行を読んだ。
その裏で、この人は、これをやっていたのだ。
封印条約で、この国から運び出されたもの。図書館の本。大学の資料。研究所の備品。企業の記録。――どこから、どこへ運ばれたのか。それぞれの施設から手押し車三台程度が、静かに通っていっただけの、あの移管を。誰も記録しなかったものを、たったひとりで、四十年かけて、追いかけていた。
灯真は、震える手で、ノートをめくった。
――先生。
灯真は、誰もいない六畳間で、そう言った。
――なんで、言わなかったんですか。
十年、この家で暮らした。毎朝、箱に話しかけた。毎晩、この人と飯を食った。この人は、一度も、これを見せなかった。四十年ぶんの目録が、机の右の引き出しにあることを、一度も言わなかった。
左の引き出しは、死ぬ三日前に、自分から開けさせたのに。
灯真は、そのとき、分かった気がした。
――言えば、僕が探しに行くからだ。
この人は、それを知っていた。四十年、たったひとりで追いかけて、それがどれだけ人生を食うかを、知っていた。だから、言わなかった。
――探してほしい、とは書かない。
九十七年前の、震える字が、頭に浮かんだ。
書けば、その者の人生を九十年、私と同じように使わせることになる。私は、それを勧めない。ただ、事実だけを、ここに残す。
灯真は、ノートを胸に抱えた。
――残す。渡さない。呪わない。ただ、そこに置いておく。
拾うか拾わないかは、拾う者が決めろ、と。
「……ずるいですよ」
灯真は、声に出して言った。
「そんなの、置いてあったら、拾うに決まってるじゃないですか」
灯真は、二十二冊のノートを、床に並べた。
年代順に。四十年ぶんを。
そして、蔵から手帳を持ってきて、その隣に置いた。九十七年前の、震える字を。
灯真は、二つを見比べた。
――曾祖父さんは、何を探すかを知っていた。
――先生は、物がどこへ行ったかを知っていた。
二人は、互いの存在を知らずに死んだ。志道が死んだ年に、鵜飼は八歳だった。鵜飼が橘家の門を叩いたとき、志道は死んで六十四年が経っていた。二人は、一度も会っていない。会えるはずが、なかった。
灯真の手が、動き始めた。
手帳の、施設名。北の山の名前。それを、鵜飼のノートで探す。四十年ぶんの、何万行から。
まる二日かかった。
十五冊目の、真ん中あたりだった。
几帳面な字で、こう書いてあった。
――(施設名) 閉鎖に伴い備品一括移管 移管先:県立第二資料保管庫(現存)




