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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第12章 磁気テープの目録

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第36話 訊きたいことが、あります

 一志は、手帳を見なかった。


 灯真が差し出した見開きを、見ようとしなかった。八十四歳の目は、庭を向いたままだった。膝の上の本が、閉じられた。


「訊きたいことが、あります」


 灯真は、もう一度言った。


 秋の夕方だった。傾いた日が、母屋の障子に、二人の影が、長く伸びていた。


 一志は、動かなかった。


 灯真は、そのとき、この人が何をしているのか分かった。この人は、いま、七十三年前と同じ場所に立っている。子どもが訊いてきて、答えるか、答えないかを、決めようとしている。


 十一歳の一志に、八十四歳の千鶴は、答えなかった。


 八十四歳の一志は、どうするのか。


「……何だ」


 しゃがれた声だった。


 灯真は、手帳を下ろした。百七十四個の0は、もういい。それは、あとでいい。


「二十九年前です」


 灯真は、言った。


「蔵で、漫画を読んでるところを、父さんに見つかりました。父さんは、あれを取り上げて、破ろうとした。手を振り上げて。……僕は、目をつぶりました」


 一志の肩が、わずかに動いた。


「破らなかった。ずっと、なんでだろうと思ってました。十年前に、分かった気になってました。破れなかったんだ、って。捨てられない家だから、って」


 灯真は、息を吸った。


「訊いてもいいですか。なんで、破らなかったんですか」


 長い、長い時間だった。


 母屋の中で、時計が時を刻んでいた。灯真は、その音を数えていた。四十を数えたところで、数えるのをやめた。


 一志が、口を開いた。


「……あれは」


 声が、掠れた。老人は、咳をして、言い直した。


「あの漫画は、俺が読んだ本だ」


 灯真は、意味が分からなかった。


「俺が、十一のときに読んだ本だ」


 一志は、庭を見ていた。


「曾祖母さんの家に、あったんだよ。座敷の隅の、本の山の中に。……俺は、あの家の縁側で、よく本を読んでいた。学校に、居場所がなかったからな。麦茶を二杯飲んで、日が暮れるまで、縁側で本を読んで、帰る。そういう子どもだった」


 灯真の背筋が、寒くなった。


「見つけたんだ。夕焼けの表紙の、古い漫画を。……一日で、三回読んだ。それから毎日、百回以上は読んだと思う」


 同じだ、と灯真は思った。


 八歳の自分と、十一歳の父が、同じ蔵で、同じ本を、同じ回数、読んだ。二人とも同じ夕焼けの丘を見た。


「あの日な」


 一志の声が、変わった。


「テープの日だ。曾祖母さんが、機械に喋った日。……あの日、俺は、ロクの話をしに行ったんだよ」


 灯真は、縁側の板の木目を見ていた。


「訊きたかったんだ。おじいちゃんが作ったのは、ロクなの、って」


 秋の光が、縁側の板の上を、ゆっくり移動していた。


「……あの人が作ったのは、世界を壊した怖いものだって、学校で言われてた。俺は、それが嫌だったんだ。だってさ、あの家に、ロクの漫画があるんだぞ。あの人が持ってたんだ。……ロクを作ろうとした人が、世界を壊すわけ、ないだろう」


 一志の手が、膝の上で、握られていた。


「だから、訊いた。なんで、おじいちゃんは、あんなもの作ったの、って。……訊き方が、下手だったんだよ。十一だぞ。ロクのことだって、うまく言えなかった。あんなもの、って言っちまった」


 灯真の目が、熱くなった。


「あの人は」一志は、そこで、初めて言葉に詰まった。「曾祖母さんは、俺が責めてると、思ったんだろうな」


――聞いていなさい。


 テープが回り始めた。座敷の隅で、十一歳の少年が、それを聞いていた。


「機械に向かって喋ったんだ」


 八十四歳の男の声が、震えた。


「訊いてあげてください、って。訊けばよかったんです、って。……俺の顔を見ないで、機械に、そう言ったんだ。目の前に、訊いてる子どもがいるのに」


 灯真は、何も言えなかった。


「七十三年」


 一志は、そう言った。


「七十三年前、俺は、あの人に、ロクの話をしたかった。それだけだ。それだけなんだよ、灯真」


 日が落ちて、縁側の板が、足の裏から冷えてきた。


 縁側に置かれた缶が、かたり、と小さく鳴った。


 灯真は、その音を聞いた。


――何か言え。


 自分に、そう言った。この人は、いま、七十三年ぶんを喋ったんだ。八十四だぞ。もう時間がないんだ。何か、言え。


 言葉が、出てこなかった。


 三十七年、この人と暮らして、この人に何かを言ったことがない。おはようも、ありがとうも、ろくに言っていない。八歳で怖くなって、十五で黙って、三十で出て行った。言い方を、知らない。


――訊き方が、下手だったんだよ。十一だぞ。


 父の声が、頭の中で鳴った。


 二十九年前、十一歳の子が、うまく言えずに、あんなもの、と言った。今、四十近い男が、うまく言えずに、黙っている。何も変わっていない。この家は、七十三年、何ひとつ変わっていない。


 灯真は、口を開いた。


「……第三巻は」


 一志が、顔を上げた。


「なんだ」


「第三巻は、なかったんですか。あの家に」


 一志の目が、大きくなった。


 そして、老人は、笑った。


 灯真は、その顔を、初めて見た。八十四歳の男が、口を開けて、声を出して笑っていた。庭の鳥が、驚いて飛んだ。


「……お前も、探したのか」


「二十九年」


「馬鹿だな」一志は、目尻を拭った。「俺は、七十三年だ」


 秋の光が、二人の影を、縁側に長く伸ばしていた。

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