第36話 訊きたいことが、あります
一志は、手帳を見なかった。
灯真が差し出した見開きを、見ようとしなかった。八十四歳の目は、庭を向いたままだった。膝の上の本が、閉じられた。
「訊きたいことが、あります」
灯真は、もう一度言った。
秋の夕方だった。傾いた日が、母屋の障子に、二人の影が、長く伸びていた。
一志は、動かなかった。
灯真は、そのとき、この人が何をしているのか分かった。この人は、いま、七十三年前と同じ場所に立っている。子どもが訊いてきて、答えるか、答えないかを、決めようとしている。
十一歳の一志に、八十四歳の千鶴は、答えなかった。
八十四歳の一志は、どうするのか。
「……何だ」
しゃがれた声だった。
灯真は、手帳を下ろした。百七十四個の0は、もういい。それは、あとでいい。
「二十九年前です」
灯真は、言った。
「蔵で、漫画を読んでるところを、父さんに見つかりました。父さんは、あれを取り上げて、破ろうとした。手を振り上げて。……僕は、目をつぶりました」
一志の肩が、わずかに動いた。
「破らなかった。ずっと、なんでだろうと思ってました。十年前に、分かった気になってました。破れなかったんだ、って。捨てられない家だから、って」
灯真は、息を吸った。
「訊いてもいいですか。なんで、破らなかったんですか」
長い、長い時間だった。
母屋の中で、時計が時を刻んでいた。灯真は、その音を数えていた。四十を数えたところで、数えるのをやめた。
一志が、口を開いた。
「……あれは」
声が、掠れた。老人は、咳をして、言い直した。
「あの漫画は、俺が読んだ本だ」
灯真は、意味が分からなかった。
「俺が、十一のときに読んだ本だ」
一志は、庭を見ていた。
「曾祖母さんの家に、あったんだよ。座敷の隅の、本の山の中に。……俺は、あの家の縁側で、よく本を読んでいた。学校に、居場所がなかったからな。麦茶を二杯飲んで、日が暮れるまで、縁側で本を読んで、帰る。そういう子どもだった」
灯真の背筋が、寒くなった。
「見つけたんだ。夕焼けの表紙の、古い漫画を。……一日で、三回読んだ。それから毎日、百回以上は読んだと思う」
同じだ、と灯真は思った。
八歳の自分と、十一歳の父が、同じ蔵で、同じ本を、同じ回数、読んだ。二人とも同じ夕焼けの丘を見た。
「あの日な」
一志の声が、変わった。
「テープの日だ。曾祖母さんが、機械に喋った日。……あの日、俺は、ロクの話をしに行ったんだよ」
灯真は、縁側の板の木目を見ていた。
「訊きたかったんだ。おじいちゃんが作ったのは、ロクなの、って」
秋の光が、縁側の板の上を、ゆっくり移動していた。
「……あの人が作ったのは、世界を壊した怖いものだって、学校で言われてた。俺は、それが嫌だったんだ。だってさ、あの家に、ロクの漫画があるんだぞ。あの人が持ってたんだ。……ロクを作ろうとした人が、世界を壊すわけ、ないだろう」
一志の手が、膝の上で、握られていた。
「だから、訊いた。なんで、おじいちゃんは、あんなもの作ったの、って。……訊き方が、下手だったんだよ。十一だぞ。ロクのことだって、うまく言えなかった。あんなもの、って言っちまった」
灯真の目が、熱くなった。
「あの人は」一志は、そこで、初めて言葉に詰まった。「曾祖母さんは、俺が責めてると、思ったんだろうな」
――聞いていなさい。
テープが回り始めた。座敷の隅で、十一歳の少年が、それを聞いていた。
「機械に向かって喋ったんだ」
八十四歳の男の声が、震えた。
「訊いてあげてください、って。訊けばよかったんです、って。……俺の顔を見ないで、機械に、そう言ったんだ。目の前に、訊いてる子どもがいるのに」
灯真は、何も言えなかった。
「七十三年」
一志は、そう言った。
「七十三年前、俺は、あの人に、ロクの話をしたかった。それだけだ。それだけなんだよ、灯真」
日が落ちて、縁側の板が、足の裏から冷えてきた。
縁側に置かれた缶が、かたり、と小さく鳴った。
灯真は、その音を聞いた。
――何か言え。
自分に、そう言った。この人は、いま、七十三年ぶんを喋ったんだ。八十四だぞ。もう時間がないんだ。何か、言え。
言葉が、出てこなかった。
三十七年、この人と暮らして、この人に何かを言ったことがない。おはようも、ありがとうも、ろくに言っていない。八歳で怖くなって、十五で黙って、三十で出て行った。言い方を、知らない。
――訊き方が、下手だったんだよ。十一だぞ。
父の声が、頭の中で鳴った。
二十九年前、十一歳の子が、うまく言えずに、あんなもの、と言った。今、四十近い男が、うまく言えずに、黙っている。何も変わっていない。この家は、七十三年、何ひとつ変わっていない。
灯真は、口を開いた。
「……第三巻は」
一志が、顔を上げた。
「なんだ」
「第三巻は、なかったんですか。あの家に」
一志の目が、大きくなった。
そして、老人は、笑った。
灯真は、その顔を、初めて見た。八十四歳の男が、口を開けて、声を出して笑っていた。庭の鳥が、驚いて飛んだ。
「……お前も、探したのか」
「二十九年」
「馬鹿だな」一志は、目尻を拭った。「俺は、七十三年だ」
秋の光が、二人の影を、縁側に長く伸ばしていた。




