第35話 不幸中の幸い
秋になった。
証言を書き写す作業は、百人を超えていた。半分だ。灯真は、毎日、蔵にいた。
そして、その日、変なものを見つけた。
証言と証言の、あいだだった。九十七人目と、九十八人目のあいだ。手帳の見開きが、丸ごと一枚、証言ではないもので埋まっていた。
数字だった。
灯真は、目を疑った。曾祖母の声には、この見開きはない。テープには、入っていない。飛ばしたのだ。証言ではないから。八十四歳の老婦人が「これは証言ではありませんので」と思って、読み上げなかったのだ。
数字は、表になっていた。
日付。国名。数。震える字で、びっしりと。全部で百七十四か国あった。灯真は、その意味が分からず、二十分ほど眺めていた。
そして、いちばん右の列の見出しに気づいた。
――死者数
灯真は、椅子から立ち上がった。
日付は、全部同じだった。あの朝だ。百年前の、あの朝。百七十四か国の、あの朝の。
すべての国の、死者数の欄に、同じ字が書いてある。
0。
0。0。0。0。
百七十四個の、0。
灯真の手が、震え始めた。
表の下に、志道の字で、注釈があった。
――上記は、消失の時刻から六時間のあいだに、事故により死亡した者の数である。私は十一年をかけて、各国の統計を取り寄せ、照合した。航空、鉄道、道路、船舶、医療、産業。あらゆる分野において、この六時間の死者は、世界中でゼロであった。
震える字が、続いていた。
――あの時刻、地球上を飛行していた旅客機は九千四百機。すべてが、人間の操縦で降着可能な高度と航路にあった。開腹手術の途中にあった患者は、判明した限りで千二百人。すべてが、閉創可能な段階にあった。高速道路上を走行していた車両は、すべて、人間の反応速度で停止可能な車間を保っていた。
――なお、あの朝を境に事故がなくなったわけではない。人が自分の手で運転し、自分の目で確かめる世界に戻った以上、事故はむしろ増えている。ゼロだったのは、あの六時間だけである。
――付記する。電力、上水道、下水道について、供給の停止は、世界のいずれの地域にも記録がない。制御を担っていたものが消えたにもかかわらず、である。混乱したのは、あくまで配分と調整であり、供給そのものではなかった。人が生きるために必要なものだけが、あの朝、一つも止まらなかった。
灯真は、口を押さえた。
――これは、偶然というにはあまりにも出来すぎている。
余白に、小さな字で、こうもあった。
――なお、統計上、午前三時は、一日のうちで最も事故の起きにくい時刻である。飛ぶものが少なく、走るものが少なく、切り開かれている腹が少ない。〈あれ〉は、その時刻を選んだのだと、私は考える。
――だが、分からないことが一つ残る。なぜ、三時ちょうどではなく、三時七分だったのか。消失の記録は、各国の時刻で三時七分に集中している。つまり、あの七分のあいだに、何かが行われていた。何が行われていたのかを、私は、知る術を持たない。
字が、いっそう震えていた。
――それを皆「不幸中の幸いでしたね」と言った。
灯真は、蔵の床に座り込んだ。
九十七年前、この人は、これを見つけていた。世界中の誰よりも早く、たったひとりで。
灯真は、その十一年を、想像しようとした。
統計は、簡単には出てこない。百七十四か国だ。言葉が違う。制度が違う。取り寄せて、突き合わせて、単位を揃えて、抜けを埋める。手紙を書く。返事を待つ。返ってこない。もう一度書く。――しかも、それを始めた頃、この人の家の門には、赤い文字で「返せ」と書かれていた。息子は職を失っていた。世間は、この人を犯人と呼んでいた。
その男が、十一年、机に向かって、数字を並べていた。
そして、できあがった一枚を持って、あらゆる扉を叩いた。
学会。省庁。新聞社。
誰も、聞かなかったし、読まなかった。
灯真は、その光景を、はっきりと想像できた。想像できることが、つらかった。受付に座った若い人が、困った顔で紙を受け取る。ありがとうございます、担当に伝えておきます、と言う。伝えない。あの橘志道が、また何か言ってきた、で終わる。犯人の言い訳だ、で終わる。
そして、たまに、誰かが目を通して、こう言うのだ。
――不幸中の幸いでしたね。
灯真は、両手で顔を覆った。
香山ユイの日記にも書いてあった。その朝、事故は全国でゼロだった。世界中でこれだけの混乱が起きたのに、その朝、事故で亡くなった人は一人もおらず、トラックも飛行機も事故は一件もなかったと運送業の夫から聞いたこと、が。
百年、誰も、そこで立ち止まらなかった。
たった一人を、除いて。
――だから、この人は。
灯真は、手帳を見た。二百四十一人ぶんの、震える字を。
だから、この人は、数字をやめたのだ。
数字だけでは、誰も動かない。動かないことを、十一年かけて知った。だから、この人は、証言を集め始めた。医者の話。老人の話。恨みの話。絵本の話。――誰かが、いつか、この見開きを読む日のために、その前後を、人間の言葉で埋めた。
注釈のいちばん下に、こう書いてあった。
――なぜそうなったのか、私には分からない。分からないまま、事実だけを記す。
その一行が、いちばん、震えていた。
灯真は、手帳を閉じた。
閉じて、また開いた。その見開きを、もう一度見た。百七十四個の0が、震える字で、並んでいる。
分からないまま、記す。
曾祖母も、同じことをした。読めないところを、読めないと言って残した。
そして、今。
灯真は、その一行を、指でなぞった。読めるのだ。いま。この見開きを読める人間が、この世に、一人だけ現れた。曾祖母が待っていた「読める人」が。
灯真は、手帳を抱えて、蔵の扉を開けた。
秋の空だった。日が暮れかけていた。母屋のほうに、灯りがついていた。障子の向こうに、父の影があった。座って、本を読んでいる。
縁側に、まだ、缶が置いてある。四日前に置いた場所から、一センチも動いていない。
灯真は、庭を横切った。
――訊けよ。
そう言った人が、そこにいる。
縁側の前に立って、灯真は、手帳を開いた。百七十四個の0のページを、父のほうへ向けた。
「父さん」
一志が、顔を上げた。
「訊きたいことが、あります」




