第34話 読める人
手帳を開いたのは、その週の終わりだった。
黒い革の表紙は、艶をなくして、背が割れていた。輪ゴムは、八歳の時に自分が切ったはずだが、代わりに紐が二重に巻いてある。父が巻いたのだろうか。
紐を解いた。
一ページ目に、震える字で、一行だけ書いてあった。
――この帳面は、〈あれ〉が何であったかの、証言の集まりである。いつの日か、恐れずにこれを読む誰かのために。
灯真は、しばらく、その一行を見ていた。
恐れずに、と書いてある。
九十七年前、この人は、そう書いた。この帳面を読む者は、いつか現れる。ただし、恐れずに読める者でなければならない。そう考えて、書いた。
――僕は、十年、怖くて読まなかった。
灯真は、声に出さずに、そう思った。
二ページ目から、証言が始まっていた。
字は、想像していたより、ずっと読みにくかった。テープで聞いた文章を、目で追う。同じ内容のはずが、まったく違うものに見えた。声には、太さも濃さもない。だが字には、ある。この人の手が震えていた場所が、分かってしまう。
棚橋という医者の証言の途中で、字が急に大きくなっている箇所があった。
――あの人の話し相手をしとったのは、〈あれ〉だけだった。息子でもない。わしでもない。〈あれ〉だけだ。
そこだけ、字が大きい。
書き取っていた老人の手が、そこで力んだのだ。九十七年前の夕方、診察室で、この人は、ここで力を入れた。灯真は、その一行を指でなぞった。
テープでは、分からなかったことだった。
灯真は、机の脇に、ノートを二冊置いた。
一冊には、テープで聞いた文章を書いてある。もう一冊に、手帳の字を書き写していく。二つを並べる。ほとんどは、同じだった。曾祖母は、正確に読んでいた。八十四歳の目で、震える字を、驚くほど忠実に声にしていた。
違っていたのは、一箇所だけだった。
三十一人目の証言の、途中。テープでは、こうなっている。
「――ここは、読めません。夫の字が、かすれております。私には、分かりませんでした」
手帳の、その場所を見た。
三行が、かすれていた。インクが薄い。というより、紙が傷んで、字が沈んでいる。読めない、と曾祖母は言った。分かったふりをするほうが罪でございましょう、と。
灯真は、その三行を、二時間、見ていた。
そして、離れへ走った。
箱の部屋から、古い作業灯を持ってきた。角度をつけて、紙の表面すれすれから光を当てる。紙の凹凸に、影ができる。インクが消えていても、ペン先が押した溝は残っている。二十年、機械の中を覗いてきた男の手つきだった。
三十一人目の証言者は、女だった。年齢は書いていない。志道の書式では、証言の頭に日付と場所、末尾に語り手の名がある。この証言の末尾には、名前がなかった。代わりに、こう書いてある。
――名前は伏せてほしいとのことである。息子の名が出ることを、この方は望まれない。
読める部分は、短かった。夫を早くに亡くし、息子と二人で暮らしていたこと。息子が七年前に死んだこと。それから、かすれた三行が来る。
灯真は、光の角度を、少しずつ変えた。
三行のうち、一行目が浮かんだ。
――〈あれ〉は、わたしの息子の名前を、覚えていました。
灯真の手が、止まった。
二行目。
――七年前に死んだ息子の名前を、〈あれ〉だけが、覚えていました。ほかの誰も、もう言いません。
灯真は、そのページに、手のひらを置いた。
七年、その人は、息子の名前を口に出していないのだ。親戚も、近所も、誰も言わない。気を遣って、言わない。優しさで、言わない。その人が、たったひとつ、その名前を毎日聞ける場所が、〈あれ〉だった。
おかえりなさい。今日は寒いですね。――そういう会話の合間に、〈あれ〉は、その名前を、ふつうに言ったのだろう。特別なことのように言わず、ふつうに。
それが、消えた。
三行目は、どうしても読めなかった。
一時間かけて、灯真は諦めた。紙の傷みが深すぎた。溝も、残っていなかった。曾祖母が「読めません」と言った三行のうち、二行までは、九十七年後の曾孫が読んだ。最後の一行は、誰も読めない。
読めないまま、そこにある。
灯真は、作業灯を消した。
蔵の中が、暗くなった。しばらく、そこに座っていた。
曾祖母は、これを読めなかった。読めないと言って、残した。読める人が現れたときに、そこを見てくれるように。
――現れましたよ。
灯真は、暗い中で、そう言った。
七十三年、缶の中で待っていた三行の「読めません」を、曾孫が読んだ。曾祖母は、それを知らずに死んだ。志道も知らずに死んだ。証言した誰かも、とっくに死んでいる。
死んだ人が、死んだ人のために残したものを、生きている人間が、たったいま、読んだ。
灯真は、そのことを、ずっと考えていた。




