第33話 一志へ
その缶を、灯真は三日、机の上に置いていた。
再生機は、隣にある。かければ、聞ける。八十八本目の缶の底には、曾祖母の震える字で、三文字だけ書いてある。
―― 一志へ
三日目の夜、灯真は、自分がおかしくなりかけていることに気がついた。
聞けばいい。誰も見ていない。父は八十四で、耳も遠い。曾祖母は七十年前に死んでいる。この缶の中に何が入っているのか、確かめて、そのうえで父に渡すかどうかを決めればいい。合理的な手順だ。誰も傷つかない。
理由なら、いくらでもあった。
中身が父を傷つけるものだったら、渡さないほうがいい。だから先に確かめる。中身がひどく個人的なものだったら、父は他人に触られたくないだろう。だから先に確かめて、そっと戻す。八十四の老人に、いまさら重いものを持たせるべきではない。だから先に――
灯真は、そこで手を止めた。
理由が、いくらでもあるときは。
蔵の暗がりで、二ヶ月前に自分が考えたことを、思い出した。理由が、いくらでもあるときは、たいてい、本当の理由が別にある。
本当の理由は、単純だった。
聞きたい。
七十二年前に死んだ曾祖母が、十一歳の父に何を言おうとしたのか。この家の百年に、何か答えのようなものがあるのか。それを、いちばん先に、自分が知りたい。父の顔を見る前に。父に渡してしまえば、二度と聞けないかもしれないから。
――お前は、そういう人間なんだ。
灯真は、自分にそう言った。
十年、蔵を開けずに箱を作った男だ。読まずに作った男だ。この缶も、たぶん、そうやって開ける。開けて、あとから理由をつける。合理的な手順でした、と。
四日目の朝、缶を持って、母屋へ歩いた。
父は、縁側にいた。膝に本を置いて、庭を見ている。夏の終わりの、白い光の中だった。灯真が縁側の前に立つと、一志は顔を上げた。
「テープが、八十八本ありました」
一志の目が、動いた。
「八十七本のはずでした。曾祖母が、そう言ってたって、香山さんの日記に書いてあります。毎朝、数えてたって。八十七本、揃っておりますよって」
灯真は、缶を差し出した。
「これは、番号がありません」
父は、缶を見た。見ただけだった。手は、膝の上の本に置かれたままだった。
「底に、字が書いてあります」
「……」
「一志へ、って」
庭の木が鳴った。
一志は、動かなかった。それから、ゆっくり、ゆっくり、缶を見た。八十四歳の男が、七十年以上前に死んだ祖母の字を見ていた。
灯真は、待った。
長い時間だった。
「……聞いたのか」
「聞いてません」
「なんで」
「僕宛てじゃないので」
一志の顔が、歪んだ。灯真には、その顔が何なのか、分からなかった。八歳の冬、漫画を振り上げた父の手が震えたときと、同じ顔に見えた。
「置いとけ」
「!」
「そこに置いとけって言ってるんだ」
灯真は、缶を縁側に置いた。父の膝の、四十センチほど横だった。手を伸ばせば届く。
一志は、伸ばさなかった。
「父さん」
「聞かん」
「……なんで」
「七十三年、待ったんだ」
老人の声は、平らだった。
「十一のときにな、訊いたんだよ。おばあちゃん、なんでおじいちゃんはあんなもの作ったの、って。……あの人は、答えなかった。俺の顔を見て、聞いていなさい、って言って、機械に喋った」
灯真は、息を止めた。
「七十三年だ。七十三年、あの人が俺に何か言うのを待った。……死んだよ、その三年後に。何も言わずに死んだ。俺は、それで終わったと思った。終わったことにして、生きてきた」
一志は、缶を見なかった。庭を見ていた。
「いまさら、なんだ」
「……」
「いまさら来られても、俺には、置き場所がないんだよ」
灯真は、何も言えなかった。
言えないまま、そこに立っていた。
――訊けよ、って言ったじゃないか。
喉まで、その言葉が来た。あなたが言ったんだ。十年ぶりに会って、すれ違いざまに、訊けよって。うちの家はみんなそうだ、訊かない、訊かれない、俺もそうだって。だから僕は、持ってきた。聞かずに、そのまま、持ってきたんだ。
言えなかった。
言えば、この人は、たぶん、こう答える。――あの時、俺は訊いたんだ。でも答えてくれなかったんだよ。もういっぺん、訊けというのか。
一志は、庭を見ていた。八十四歳の横顔だった。灯真は、この人の顔を、まともに見たことがあっただろうかと思った。八歳で殴られかけて、十五で口をきかなくなって、三十で家を出て、四十で戻ってきた。四十年近く、この人と同じ庭を見て育って、顔を見ていない。
母屋を出て、離れへ帰る途中で、蔵の前を通った。白い漆喰の壁が、夏の光を返していた。
――七十三年。
灯真は、その数字を頭の中で回した。曾祖母は、二百四十一人の言葉を声にした。一年かけて。八十七本のテープに。そして、八十八本目を録った。誰にも渡さずに、缶の底に名前だけ書いて、菓子の缶の列に紛れさせて、この世を去った。
なぜ渡さなかったのか。
いや、と灯真は思い直した。渡せなかったのだ。この家の人間は、みんなそうだ。捨てられない。渡せない。開けられない。ただ置いておく。置いておいて、次の代が困るのを、百年、繰り返している。
夕方、灯真は縁側を覗きに行った。
缶は、まだそこにあった。
一志は、いなかった。缶だけが、縁側の板の上に、四角い影を落としていた。
灯真は、それを持ち帰らなかった。




