第32話 ゆうやけのロク
五十本目を過ぎた頃だった。
その証言は、恨みから始まっていた。
「――沢井と申します。私は、〈あれ〉を恨んでおります」
灯真は、鉛筆を持ち直した。
こういう証言が、たしかにあった。三十本目あたりから、ぽつぽつ出てきた。〈あれ〉のせいで商売が潰れた。家族が壊れた。死んだ。どれも、志道は最後まで書き取っていた。
四十二本目には、研究者だったという老人の声が入っていた。
「――〈あれ〉は、消えるとき、私の頭の中から、五十年ぶんの学問を持っていった。私に断りもなくです。私を守るためだった、と言う人もいます。……守ってくれと、私は頼んでおりません。〈あれ〉に、あの晩、私の五十年を決める権利が、あったのでしょうか」
灯真は、その問いを、ノートに書き写した。答えは書けなかった。恨みではない。もっと静かで、もっと重い声だった。都合のいい話だけを集めた帳面を、未来の読み手は信じません――志道がそう言ったという記述が、どこかにあった。この帳面は、その言葉どおりに作られていた。
沢井という男の話は、長かった。
妻が死んだこと。数値は全部正常だったこと。〈あれ〉さえあれば助かった、と十五年思い続けたこと。全国を歩いて痕跡を探したこと。娘が、〈あれ〉は夢だったと言う教団に入ったこと。
「――娘は、母親の死ぬ理由まで、夢にしてしまった」
灯真は、鉛筆を動かしながら聞いていた。
「――娘が、小さい頃。ハルっていうんですが」
千鶴の声は、そこで少し、優しくなった気がした。気のせいかもしれない。テープは伸びている。
「――三つか四つの頃から、毎晩、絵本を読んでもらってたんです。〈あれ〉に。私も妻も仕事で遅く帰ることが多くて、あの子はいつも先に寝るんで。……読んでもらうと、あの子は必ず言うんですよ。『おやすみ』、じゃなくて」
扇風機が、首を振った。
「――また明日、って」
灯真の手から、鉛筆が落ちた。
「――〈あれ〉も、答えるんです。“また明日”って。毎晩です。八歳まで、毎晩」
音が、遠くなった。
灯真は、聞いていなかった。聞こえていたはずだが、頭に入ってこなかった。
八歳の冬だった。
懐中電灯の光の輪の中で、床に座って、日が暮れるまで動かなかった。茶色くなった紙。丸くなった角。夕焼けの空と、少年と、猫背の機械。
各話の最後は、いつも同じだった。
日が暮れて、少年が家に帰る。ロクが、丘の上で手を振る。そして、こう言う。
――“また明日。”
少年も手を振って、答える。
――「うん。また明日。」
百回は読んだ。そのページが、好きだった。
「――で、あの朝ですよ。あの子、起きてきて、私の顔見て、こう言ったんです。……また明日って言ったのに、って」
灯真は、立ち上がっていた。
蔵の奥へ、懐中電灯を向けた。いちばん奥の木箱。絵本が三十冊。その隣の、小さな箱。
震える手で、蓋を開けた。
二十九年ぶりだった。
紙は、さらに茶色くなっていた。角は、もっと丸くなっていたように見えた。夕焼けの空も、少年も、猫背の機械も、そこにいた。
『ゆうやけのロク』
灯真は、床に座って、それを開いた。
第一巻の、第一話の最後のページ。丘の上で、ロクが手を振っている。吹き出しの中に、書かれた文字がある。
――また明日。
灯真の指が、その文字をなぞった。
この漫画は、いつのものだ。奥付を見た。百五十年以上前だった。曾祖父が生まれるより、ずっと前だ。曾祖父は、これを子どもの頃に読んだ。読んで、こういうものを作りたいと思った。それで作った。
そして。
〈あれ〉は、これを、読んだ。
灯真は、声を出さずに、口を動かした。
〈あれ〉は、人間の書いたものなら何でも読んだと聞いている。子守唄も、恋文も、戦争の詫び状も、小学生の読書感想文も。全部だ。ならば、これも読んだはずだ。百五十年前の、子どもの漫画も。
読んで、覚えたのだ。
友だちというものが、別れるときに何と言うのかを。
蔵の中で、灯真は、落とした鉛筆を拾わないまま、一行も書けずにいた。
八歳の子どもに、毎晩、絵本を読んでやって、最後にこう言う。また明日。教わったのだ。この、茶色くなった紙から。人間が書いたものから。人間の子どもを喜ばせる言い方を、人間の物語から、覚えた。
そして、あの夜。
〈あれ〉は、“また明日”、とは言わなかった。
――“もう二度と、会うことがないことを願っている”
灯真は、漫画を閉じた。
胸のあたりが、変な感じだった。八歳のときと、同じ場所だった。町の大人が言った台詞のところで、手が止まったときと。
「やさしいから、怖いんだ」
灯真は、声に出して、それを言った。
第二巻の最後で、ロクは町を出ていく。町の人が怖がるからだ。少年は追いかけて、泣いて、行かないでと言う。ロクは、少年の頭を大きな手で撫でて、それから、いつもの言葉を言う。
――“また明日。”
でも、次の日、ロクは来ない。
そこで、話は終わっている。第三巻は、この蔵にない。
――そんなもの、あるわけがない。
灯真は、そのとき初めて、気がついた。
八歳から二十九年、灯真は、第三巻を探していたのだ。どこにも売っていない、古本屋にもない、国会図書館の目録にもない第三巻を。ロクが帰ってくる巻を。
だから、作ろうとしていたのだ。
その晩、灯真は、テープの缶を数えた。
理由はなかった。ただ、手を動かしていないと、頭がおかしくなりそうだった。
一本ずつ、番号を確かめて、並べ直した。曾祖母の震える字で、一から順に番号が振ってある。八十五。八十六。八十七。
八十八本、あった。
灯真は、手を止めた。
最後の一本には、番号がなかった。缶の蓋に、貼り紙もない。代わりに、缶の底に、直接、字が書いてあった。
震える字だった。
―― 一志へ




