第31話 読めません
その夏を、灯真は蔵で過ごした。
箱の電源は、落としたままだった。離れには、ほとんど帰らなかった。蔵に電気を引いて、扇風機を一台入れて、朝から晩まで、テープを回した。
八十七本あった。
一本が四十分ほど。全部で、六十時間近い。ただし、六十時間で終わる話ではなかった。聞き取れないところが、いくらでもあった。伸びて、歪んで、途切れる。同じ十秒を、二十回聞き直すこともあった。
灯真は、ノートを買ってきた。
紙のノートに、鉛筆で、聞こえたことを書いた。この百年、日本人が当たり前にしてきたやり方だった。曾祖父の帳面から、曾祖母が声に移したものを、曾孫が紙に戻している。灯真は、その馬鹿らしさを、ときどき可笑しく思った。可笑しく思いながら、手は止めなかった。
第一の証言は、医者だった。
「――棚橋と申します。この町の、市立病院の内科医です」
九十七年前の声だった。千鶴が、志道の字を読み上げている。読み上げる声が、ところどころで止まる。
「――ここは、読めません」
その言葉に、灯真は手を止めた。
「――夫の字が、かすれております。私には、分かりませんでした」
灯真は、しばらく、その言葉を反芻した。
読めないところを、読めないと言って残す。分かったふりをしない。三十年前、大学で計算機を学んでいた頃、教授がよく言っていた。分からないところを分からないと書けるやつが、いちばん信用できる。七十五年前の、老婦人が、同じことをしていた。
棚橋という医者の証言は、短かった。
妻を亡くしてから毎晩〈あれ〉と話していた老人が、〈あれ〉を失って眠れなくなり、痩せて、転んで、死んだこと。老医師が最期の三日、パイプ椅子に座って話を聞いたこと。そして、こう言ったこと。
「――わしは三日で音を上げたよ。三日、話を聞いただけで、くたびれた。〈あれ〉は、何年やっとったんだろうな。何億人を相手に」
灯真は、鉛筆を置いた。
箱のことを考えた。離れで電源を落とされている、十四の鉄の箱のことを。〈あれ〉は、犬と猫を見分ける。三万枚見せれば見分ける。何億人の話し相手をするなど、想像したこともなかった。
第二の証言は、病院の受付の女だった。
「――香山ユイと申します」
灯真は、その名前を知っていた。蔵の隅に、その人の日記が三十二冊ある。運び込んだのは父だ。
「――絶縁状に、願うなんて書くでしょうか」
灯真の手が、止まった。
「――あの最後の文です。“もう二度と、会うことがないことを願っている”みんな、〈あれ〉は絶縁状だって言います。でも、絶縁する人は、二度と会わないって言い切ると思うんです。願うっていうのは……自分ではどうにもできないことに、使う言葉じゃないでしょうか」
扇風機が、首を振った。
「――それに、あの文には、誰が誰と、って書いてないんです。みんな勝手に、〈あれ〉が、私たちと、って読んでいるだけで。もし、逆だったら。もし――私たちが、って読むんだったら」
そこで、証言は終わっていた。
灯真は、テープを止めた。
蔵の中で、しばらく動かなかった。
小学校で、その一行を習った。教科書に載っていた。大消失。「高度に発達したAI(人工知能)は、人類に別れの言葉を残し、その痕跡とともに消滅した。」別れの言葉。そう習った。誰も疑わなかった。灯真も疑わなかった。
九十七年前、病院の受付の女が、疑っていた。
学がないから、と言ったらしい。志道の帳面には、そう書いてあるという。この人は、世界中の学者が三年かけて出した結論に、たったひとり、違う気がすると言った。言って、それきり、五十七年、誰にも言えずに死んだ。
灯真は、ノートに書いた。
「香山ユイ。主語がない。私たちが、と読むと、意味が逆になる」
書いて、鉛筆の先を、しばらく見ていた。
逆になったとして、どういう意味になるのか。そこが、分からなかった。
〈あれ〉が、人類に向かって「私は、お前たちと二度と会わない」と言った。それが、教科書の読み方だ。
では、逆とは何か。「あなたたちが、私と二度と会わない」――そう願った、ということになる。
灯真は、鉛筆を置いて、目をこすった。
願う、というのは、自分ではどうにもできないことに使う言葉だ。あの受付の女は、そう言った。ならば、〈あれ〉にも、どうにもできないことがあったのか。
全能に近いと言われたものに。世界中のあらゆる機械に手が届いたものに。
――どうにもできないことが?
そこで、思考が止まった。頭の中に、壁があった。押しても、叩いても、動かない壁だった。九十七年前に、病院の受付の女が突き当たったのと、たぶん、同じ壁だった。
その晩、蔵を出ると、母屋に灯りがついていた。
障子の向こうに、父の影があった。座って、何かを読んでいる。八十四になっても、あの人は本を読む。夜は本を読む、と決めているのだ。
灯真は、庭に立ったまま、その影を見ていた。
――訊けよ。
そう言った人が、そこにいる。訊けばいい。曾祖母のテープを聞きましたと、言えばいい。恨みも書いてあったと、教えてやればいい。
灯真は、離れへ帰った。
歩きながら、自分に言い訳をした。まだ、八十六本ある。全部聞いてからだ。半端なことを言っても、あの人は聞かない。
――お前も、そうだ。
父の声が、頭の中でした。訊かない。訊かれない。この家は、みんなそうだ。
夏が、終わりかけていた。




