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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第10章 声

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第30話 怖がっていたのは

「あの朝、世界は静かでした」


 蔵の床に座り込んだまま、灯真は膝を抱えていた。


 七十五年ぶんの時間が、声を歪めていた。テープは伸びていた。女の声は、ときどき低く沈み、間延びして、また戻る。水の底から聞こえてくるようだった。


「私は、〈あれ〉が怖かった」


 そこで、音が一度、途切れた。


 三秒ほど、雑音だけになった。灯真は、息を止めた。戻ってきた。


「――にもそう言えませんでした。消えたと聞いたとき、私は、正直に申しますと、ほっといたしました」


 夫にも、と言ったのだろう。灯真は、そう思った。思っただけで、確かめる方法はなかった。


「三十年ほどかかって、やっと分かったことがございます」


 そこから先の数秒間を、灯真は、生涯忘れなかった。


「……怖がっていたのは、私たちのほうでした」


 蔵の中の空気が、変わった気がした。


 灯真は、再生機を止めなかった。止められなかった。手が、動かなかった。


「〈あれ〉は、何もしなかった。何もしないで、消えました。この帳面には、〈あれ〉に助けられた人の話が書いてあります。恨んでいる人の話も、ございます」


 灯真の頭の中で、何かが軋んだ。


 いま、なんと言った。


「恨みも、〈あれ〉がいた証しだと、夫は申しました。……どちらも、本当なのです。助けられた人と、恨んでいる人が、同じ町に住んでいる。それが、〈あれ〉のいた世界でした」


 灯真は、なんとか再生機に手を伸ばして、巻き戻した。


 もう一度、その十秒を聞いた。三度、聞いた。テープが伸びていて、聞き間違いかもしれないと思った。四度目で、巻き戻す手を止めた。聞き間違いではなかった。


――恨んでいる人の話も、書いてある。


 蔵の壁に、背中を預けた。


 灯真はこの帳面を、ずっと言い訳の束だと思っていた。曾祖父は、自分の作ったもののせいで世界を壊した男だ。壊した男が、みっともなく庇って、二百四十一人ぶんの弁護を集めて、それを抱いて死んだ。父はそう言った。世間もそう言った。灯真は、それに逆らいたくて、逆らう根拠がなくて、読まずに三十年、意地だけで立っていた。


 読まなかった理由の半分は、そこにあった。


 開いて、そこに弁護しか並んでいなかったら。二百四十一人ぶんの「〈あれ〉はいいものでした」が並んでいるだけの帳面だったら。――そんなものを、誰が信じる。自分でさえ、信じない。


 なのに、この人は、いま、こう言った。


 恨みも、書いてある。


 灯真は、天井を見上げた。


 自分を焼く火を、自分で集める人間がいるものか。


 いたのだ。百年前に。この家に。門扉に赤い文字を書かれて、息子が職を失って、それでもその人は、〈あれ〉を恨む人間の家の玄関に立って、頭を下げて、恨みを書き取らせてくださいと言った。


――都合のいい話だけを集めた帳面を、未来の読み手は信じません。


 その一行を、灯真は、まだ知らない。知らないまま、その理屈にだけ、たどり着いていた。


「私たちは、〈あれ〉を、何ひとつ分からないままにしました。分からないまま怖がって、分からないまま封じました。それが、いちばん、いけなかったのだと思います」


 テープが、また伸びた。声が、低く垂れた。


「これを聞いている方。あなたの時代に、もし、〈あれ〉がもう一度おられるなら」


 灯真の喉が、鳴った。


「……どうか、怖がる前に、訊いてあげてください」


 かちり、と音がした。


 テープが止まった。蔵の中が、静かになった。懐中電灯の光の輪の中に、埃が、ゆっくり回っていた。


――訊けよ。


 夕方、父が言った言葉が、耳に残っていた。


 七十年以上前にこの世を去った曾祖母と、二時間前に会った八十四の父が、同じことを言っている。「訊け」、と。この家の人間は、みんなそれを言う。言いながら、誰も訊かない。


 灯真は、テープを巻き戻した。


 もう一度、聞いた。


 五度目を聞いたとき、外が白み始めていた。六度目の途中で、灯真は、自分が声を出して泣いていることに気がついた。何が悲しいのか、分からなかった。会ったことのない人だった。名前も、その日まで知らなかった。


 母屋のほうで、灯りがついた。


 父が起きたのだ。八十四の老人は、朝が早い。灯真は、涙を拭って、テープを止めた。それから、蔵の暗がりで、しばらくじっとしていた。


――父は、これを聞いたことがあるのか。


 そう思った。


 聞いていないだろう、とすぐに思い直した。この人は、鍵を首から下げて十九年、開けなかった男だ。聞いていたら、あの言い方はしない。


 いや。


 灯真は、缶の並びを見た。曾祖母の震える字で、番号が振ってある。


 もし、聞いていたとしたら。聞いたうえで、それでも鍵をかけていたのだとしたら。――そのほうが、ずっと怖いことだった。


 その人が、七十三年前に、こう言ったのだ。


――これを聞く方が、いつか、おられるのかどうか、私には分かりません。


 蔵の中で、八十年以上前の機械に向かって、四十に近い男が、声に出して言った。


「います」

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