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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第三部 再生 | 第9章 百年目のエンジニア

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第29話 読みなさい

 鵜飼静は、その年の五月に息を引き取った。


 八十二歳だった。最後の一週間は、ほとんど眠っていた。灯真は、枕元にパイプ椅子を置いて、座っていた。喋れなくなった老女の代わりに、灯真が喋った。今日の天気の話。箱の温度の話。庭に来た鳥の話。


 三日目の夜、灯真は、ふと思い出して、こんなことを言った。


「先生。三十年で一行って、言いましたよね」


 返事はなかった。


「あれ、本当ですか」


 灯真は、老女の手を見ていた。骨と皮になった、小さな手だった。四十年、本のページをめくり続けた手だった。


「……僕、あれを聞いたとき、少し安心したんです。先生でも、三十年かかるんだって」


 老女の指が、少しだけ動いた気がした。


「僕も、同じですよ」


 灯真は、そう言った。言ってから、自分で驚いた。この十年、一度も言葉にしたことのないことだった。


 死ぬ前の日、鵜飼は一度だけ目を開けて、灯真の顔を見た。


 口が動いた。声にはならなかった。


 灯真には、それが「よみなさい」に見えた。


 葬儀は、灯真がひとりで出した。身寄りのない人だった。大学の関係者は、誰も来なかった。三十年、封印条約に違反し続けた元司書の名前を、覚えている人間は、もういなかった。


 坊主が経を読み、灯真が焼香をして、それで終わりだった。ずいぶん静かな葬式だった。曾祖父の葬式も、こんなふうだったと聞いている。


 骨を拾って、離れに帰った。


 箱は、冷却の風の音を立てていた。あと三週間だった。机の上に、最後の詰めの資料が広げたままになっている。


 灯真は、それを見て、部屋の電源を落とした。


 風の音が止まった。八畳間が、初めて、静かになった。


 その足で、灯真は実家へ向かった。


 敷居をまたぐのは、三年前の母の葬式以来だった。あの日は、父と目も合わせずに帰った。まともに口をきくのは、十年ぶりになる。


 工房の暖簾は、下ろされていた。父は八十四になる。もう本は綴じていない。庭を回ると、蔵の前に人影があった。


 一志が、蔵の壁に手をついて、立っていた。


 灯真は、足を止めた。老人は、息子に気づいて、振り返った。間近で見る父の顔は、驚くほど小さくなっていた。


 長い沈黙があった。


「……鵜飼先生が」灯真は、やっと言った。「亡くなりました」


 一志は、答えなかった。蔵の壁を見ていた。


 それから、こう言った。


「まだ、開けとらんのか」


 灯真は、息を呑んだ。


「十年、開けとらんだろう。埃が動いとらん」老人は、壁から手を離した。


「……父さん」


「何をしてたんだ、お前」


 一志は、そう言った。声に、力はなかった。ただ、疲れた老人が、疲れたまま言った言葉だった。


「あの婆さんに鍵を渡したのは、俺が、お前に読ませたかったからだ」


 灯真は、父の顔を見たまま、瞬きを忘れていた。


「お前なら読める、と思ったんだ、俺が読めんかったものを。お前の曾祖父さんが何を書いたのか。あの人が何をやったのか。……読んで、それでもやるって言うなら、俺は、もう何も言わん。読んでから決めろって、そう思ったんだ」


 老人は、そこで一度、咳をした。


「なのにお前は、読まずに作った」


 灯真の膝が、震えた。


「十年だ。十年、俺は待ってたんだよ。お前が蔵から出てきて、俺に何か訊きに来るのを。……お前は、来なかった。一度もだ」


 一志は、母屋のほうへ歩き出した。曲がった背中が、灯真の横を通り過ぎた。


 すれ違いざま、老人は言った。


「訊けよ」


 灯真は、振り返った。


「え」


「訊けって言ってるんだ」


 父は、振り返らなかった。


「うちの家は、みんなそうだ。訊かない。訊かれない。俺のばあちゃんも、そうだった。」


 そう言って、一志は家に入っていった。


 灯真は、蔵の前に立っていた。


 日が暮れるまで、そこにいた。


――なぜ、読まなかったのか。


 十年、灯真はその問いを、自分に向けなかった。忙しかったからだ。鵜飼が急かしたからだ。箱が呼んでいたからだ。理由なら、いくらでもあった。


 理由が、いくらでもあるときは、たいてい、本当の理由が別にある。


 灯真は、それを知っていた。知っていて、十年、蓋をしていた。


――怖かったんだ。


 やっと、言葉になった。


 読めば、分かってしまう。曾祖父が、本当は何をした人なのか。あの人が集めた二百四十一人が、本当は何と言っていたのか。もし――もし、あの帳面に書いてあることが、父の言う通りだったら。


 うちは、災厄を作った家です。曾祖父は、それを認められずに、みっともなく庇い続けました。二百四十一人の言い訳を集めて、それを抱えて死にました。


 そう書いてあったら?


 灯真の三十年が、消える。八歳の冬、暗い蔵の中で、夕焼けの丘に立つ大きな影を見た。あの影が、ただの、子どもだましの絵だったことになる。父に殴られる覚悟で「作りたい」と思った、あの気持ちの置き場が、どこにもなくなる。


 だから、先に作った。


 読まずに作れば、いつまでも「かもしれない」でいられる。曾祖父は正しかったかもしれない。ロクは本当にいたかもしれない。――箱ができるまでは、たしかめずにすむ。


 十年、灯真は、たしかめずにすむほうを選んでいた。


 その十年ぶんを、父は、庭から毎日見ていた。


――馬鹿だな、お前。


 そうだ、と灯真は思った。父の言う通りだ。


 この家の男は、みんな同じことをしてきた。曾祖父は「〈あれ〉は何もしていません」と言い続けて、たしかめる前に死んだ。祖父は、捨てられないまま運んだ。父は鍵を首から下げて、十九年、開けなかった。そして四代目の自分は、読まずに作った。


 みんな、たしかめなかった。


――訊けよ。


 父の声が、耳に残っていた。


 日が、暮れた。


 灯真は、錠を外して、扉を開けた。


 埃と、紙の匂いがした。八歳のときと、十年前と、同じ匂いだった。


 懐中電灯の光を、奥へ向けた。


 菓子の缶が並んでいる。中に、黒い四角いものが、詰まっている。八歳の灯真には、それが何なのか分からなかった。三十七歳の灯真には、分かった。磁気テープだ。七十五年前の記録媒体。


 缶の蓋に、紙が貼ってあった。震える字で、番号が書いてある。一本目の缶にだけ、番号の横に、もう一言そえてあった。


――はじめに、これを。


 灯真は、一本目を取り出した。


 離れから運んできた古い再生機に、それをかけた。八十年近く経つその機械を、二日かけて直したものだ。あの箱を作るのに比べれば、子どもの遊びのようなものだった。


 再生のボタンを押した。


 雑音が、部屋を満たした。


 テープは、伸びていた。七十五年ぶんの湿気と時間が、声を歪めていた。低くなって、揺れて、時々、途切れる。


 それでも。


「――橘千鶴です」


 灯真は、息を止めた。


「……八十四歳です。夫、橘志道の妻でございます」


 女の声だった。


 聞いたことのない声だった。当たり前だ。この人は、灯真が生まれる三十年前に死んでいる。


「これを聞く方が、いつか、おられるのかどうか、私には分かりません。おられるとしたら、たぶん、ずっと先の方でしょう。ですから、その方に申し上げます」


 灯真の喉から、変な音が出た。


 いる、と言おうとした。ここに、います、と。


 七十五年前に録音された声は、答えるはずがなかった。それでも、その声は、まっすぐに灯真に向かって喋っていた。ずっと先の方、と。この人は、まだ生まれてもいない誰かに向かって、たしかに、話しかけていた。


「あの朝、世界は静かでした」


 テープが、回っていた。

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