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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第三部 再生 | 第9章 百年目のエンジニア

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第28話 あと十年

 三日後、鵜飼が倒れた。


 町医者が来た。若い男の医者で、首から古い聴診器を下げていた。診察は、十五分ほどだった。医者は縁側で灯真に向き直り、こう言った。


「彼女は、ご自分で分かっておられます」


「どのくらいですか」


「夏まで、と申し上げました」医者は、少し言い直した。「正直に申しますと、そこまで持たないかもしれません。……病院に、入られますか」


 鵜飼は、布団の中から「結構です」と言った。聞こえていたらしい。


 医者が帰ると、老女は身を起こそうとして、諦めた。灯真が枕を立ててやると、鵜飼は目を閉じたまま、こんなことを言った。


「橘さん。私の机の、左の引き出しを開けてください」


 書類の束が入っていた。論文の写しだった。英語のもの、中国語のもの、読めない字のもの。全部で、三十本ほど。どれも新しい。この五年以内のものだ。


「どれも、〈あれ〉とは関係のない論文です」と、鵜飼は言った。「材料の話。計算の速さの話。回路の話。……封印条約は、〈あれ〉の理論だけを禁じております。しかしその周りは、禁じられていない」


「はい」


「四十年、それを読んでおりました。……去年から、変なんです」


 灯真は、書類をめくった。


「三つの国で、似たことをやっています。目的が違うのに、道具が同じ形になってきている。……橘さん。あなたが十年で作れたなら、他の誰かも作れます。世界は、そんなに広くありません」


「先生。それは」


「早くて五年、遅くても十年でしょう」


 鵜飼は、はっきり言った。


「私たちが今日、全部燃やしたとします。箱を壊して、私の一行も焼いて、二人とも黙って死ぬ。……それでも、十年後には、どこかの誰かが、同じところに立ちます。その人は、あの蔵を持っていません」


 部屋が、静かだった。


 灯真は、その意味を、少しずつ理解した。


 やめても、消えない。ただ、遅れるだけだ。そして遅れたぶん、次に立つ人間は、この家の蔵を知らない。百年前に何が起きたのかを、教科書の二行でしか知らない誰かが、何も知らないまま、もう一度〈あれ〉を世に出す。


 それは、百年前と、まったく同じ形だった。


「先生」


 灯真は、訊いた。


「もし、どこかの国が先に作ったら、どうなるんでしょうか」


 鵜飼は、天井を見ていた。


「百年、大きな戦争がありませんでした」と、老女は言った。「立派な話のように言われますが、理由は簡単です。誰も、飛び抜けたものを持っていなかった。持っていないから、誰も動けなかった。……図書館の本と同じです。全部の棚に鍵がかかっているうちは、誰も盗みません」


「……はい」


「一つの棚だけ、鍵が開いたら」


 鵜飼は、そこで言葉を切った。


「私は司書ですから、その先は知りません。知りませんが、鍵の話であることは、分かります」


「……だから、僕らがやるんだと。先生は、それが言いたかったんですか」


 鵜飼は、目を開けた。


 そして、灯真がこの十年で一度も見たことのない顔をした。


「いいえ」


「えっ」


「私は、間違えました」


 老女の声は、小さかった。


「百年前、人類は作り方を持っていて、それでも間違えた。作り方の隣に、なぜ間違えたのかが要る。……そう言ったのは、私です。あなたのお父さんの前で、そう言って、鍵をもらいました」


 灯真は、その時の父の顔を思い浮かべた。


「それから、十年。私は、あなたに何をさせました?」


 答えられなかった。


「作らせました。毎日、毎日、作り方だけを急がせました。私が、あと何年生きられるかを数えながら、あなたを急がせた。……蔵は、開けたきりです。あの晩、扉を開けて、埃の匂いを嗅いで、それで終わりです」


 十年前の夏の晩を、灯真は思い出した。


 錠を開けて、扉を開けて、埃と紙の匂いがした。八歳のときと同じ匂いだった。その夜、鵜飼が懐中電灯で中を照らして、「明日から、少しずつ」と言った。


 その明日が、十年、来なかった。


「本を守るのが仕事でした。だから……私は、二百四十一人の証言を、十年、埃の中に置いたままにしました」


 老女の目に、水が溜まった。


「橘さん。私は、あなたに、いちばんしてはいけないことをさせました」


 灯真は、つぶやくように訊いた。


「先生は、読んだんですか」


 鵜飼の目が、灯真を見た。


「あの蔵です。先生は読んだんじゃないですか?……歩けたころ、いくらでも行けたはずだ」


 長い沈黙があった。


「いいえ」と、老女は言った。「読んでない……。読んでないのです」


「なぜです」


「あなたと、同じ理由です」


 灯真は、意味が分からなかった。分からないふりをした、というほうが正しかったかもしれない。


「四十年、本を守りました。……守るのと、読むのは、違うんですよ、橘さん。守るだけなら、傷つかずにすみます。中に何が書いてあっても、棚の上にそのまま置いておける」


「先生」


「棚の裏から一冊落ちてきたとき、私は、三日、拾いませんでした」


 灯真は、顔を上げた。


「三日、床に落ちたまま、掃除のたびに跨いでおりました。拾えば、読んでしまう。読めば、私の司書人生が終わる。……四日目に、拾いました。あれが、私の人生でいちばん、勇気の要った日です」


 老女は、続けた。


「三十年で一行。立派な数字でしょう。……その三十年の中身の半分は、迷いです。読んだあと、私は毎晩、この本を焼こうかと考えました。焼けば楽になる。でも焼かずに、読み続けました。それだけの三十年です」


 灯真は、何も言えなかった。


「読みなさい」


 鵜飼は、言った。


「箱は、置いておきなさい。あと三週間なら、三週間後にできます。一年後でも、できます。……ですが、読むのは、いましかありません」


「先生。時間が」


「時間がないのは、私です」


 老女は、厳しい目をした。


「あなたは、三十七です。一年、遅らせたところで、何も失いません。……一年あれば、読めます」

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