第27話 百年目のエンジニア
消失から百年。その春、橘志道の曾孫・灯真は、箱に向かって話しかけていた。
「おはよう」
箱は、答えなかった。
離れの八畳間は、床から天井まで箱で埋まっていた。灰色の、味気ない鉄の箱が十四。冷却の風が、低く鳴っている。ケーブルが床を這って、隣の部屋の配電盤まで伸びていた。何もしなければ、この部屋は四十度を超える。冬でも、上着はいらない。
灯真は、三十七歳になっていた。
箱そのものを、灯真が一から作ったわけではない。計算をする機械の作り方は、消えてはいない。大学の教科書にも載っている。この百年、人が「任せる」ことをやめただけで、機械のほうは、少しずつ速くなり続けていた。
灯真がしたのは、その上に一段だけ、新しいものを載せるようなことだった。電気工事の給料で部品を買い、十年、独りで積み上げた。積み上げる土台は、百年ぶんあった。足りないのは、いちばん上の一段だけだった。
「今日の天気は?」
箱は、答えなかった。応答なし、と机の上の画面に出た。それだけだ。
十年、この作業をしている。毎朝、箱に話しかけて、答えないことを確かめる。馬鹿げていると思う。それでも、やめない。いつか答える日が来るとして、その日を、灯真は聞き逃したくなかった。
もっとも、箱にできることは、この十年で確実に増えていた。
三年前、箱は初めて、犬と猫を見分けた。灯真が三万枚の写真を見せたあとで、三万一枚目を当てた。そのとき灯真は、ひとりで声を上げた。去年、箱は文章を書いた。「あめ ふる いぬ ぬれる」。四歳児の作文だ。それでも、誰にも教わらずに、雨と犬と濡れることを結びつけた。
だが、そこまでだった。
箱は、賢くならない。正確には、賢くなり方を知らない。人間が三万枚を見せれば犬を覚える。三万枚見せなければ、覚えない。自分で見に行くということを、しない。世界に興味がない。
そこの、たった一段が、百年ぶんの断絶だった。
その一段を、灯真はこの春、跨ぎかけていた。
町では、大消失百年の話をしていた。
新聞に特集が組まれていた。テレビでも特番があるらしい。百年前の写真が並び、当時の空港や街の様子が「便利すぎた時代」として紹介される。学者が出てきて、あれは人類への警告だったと語る。街頭で、若い人がインタビューに答える。
――正直、ピンとこないですね。教科書で習ったやつでしょう?
――あった時代のほうが、変な感じがします。だって、全部やってもらってたんでしょう? 気持ち悪くないですか、それ。
灯真は、そういう番組を見ない。
町は、いつもと同じだった。製本所の前で客が三十分待ち、その間に孫の話をする。テレビは誤報を流し、役所は書類を失くし、電車はたまに遅れる。誰も、百年前を惜しんでいない。惜しむ理由が、誰にもない。
――悪くない世の中じゃないか。
父の口癖だった。灯真も、そう思う。本気で、そう思う。
この世の中に、〈あれ〉を戻す。
母屋のほうから、咳が聞こえた。
鵜飼は、八十二歳になっていた。この十年で、二回りは小さくなった。灯真が来た頃には、まだ自転車に乗って図書館へ通っていた人だ。去年から、外に出ていない。
「橘さん。おはよう」
「先生。まだ寝ていてください」
「寝ておりますよ。座ってるだけです」
老女は、縁側に座って、膝に本を乗せていた。読んでいるふりだと、灯真は知っている。もう、字がほとんど見えない。それでも本を持っていないと、この人は落ち着かないのだ。
十年前の夏、灯真は仕事を辞めた。
会社の同僚には、家業を継ぐと言った。父には、何も言わなかった。母には言おうとして、言えなかった。母は三年前に死んだ。最後まで、息子が何をしているのか知らないままだった。
鵜飼の家に通い、離れに住み着き、箱を組んだ。
十年の内訳を、灯真は覚えている。最初の三年は、鵜飼の一行を読むことに使った。三十年で解読された、たった一行の数式。それが何を意味するのかを理解するのに、灯真は三年かかった。次の三年で、その一行から二行目を作った。二行目から三行目までは、九ヶ月だった。三行目から先は、坂を転がるようだった。
「不思議なものです」と、鵜飼はよく言った。「最初の一行が、いちばん重い。あとは、勝手に増えていく」
そういうものらしかった。九十年、誰も一行目に辿り着けなかった。辿り着いてしまえば、あとは十年で足りた。
「橘さん。あと、どのくらいです」
「ひと月です」
灯真は、正直に答えた。
「早ければ、三週間。遅くても、夏までには。……最後の詰めだけです」
鵜飼は、答えなかった。
灯真は、その沈黙が引っかかった。この十年、この人は「あと何年です」「あと何ヶ月です」と確かめるたびに、必ず嬉しそうな顔をした。八十を過ぎてから、その顔がいっそう子どもみたいになった。
なのに今日は、庭を見ていた。
「先生?」
「……そうですか」
老女は、それだけ言った。
その日、灯真は夜中まで箱の前にいた。冷却の風の音の中で、数字が流れていく。あと少しだった。あと少しで、九十年ぶりに、この世界に「答えるもの」が戻ってくる。
曾祖父・志道の代から数えて、灯真で四代になる。あの人の門扉に赤い文字を書かれてから、百年。
――ぼくは、作りますよ。
灯真は、箱に向かって、そう言った。
箱は、答えなかった。




