第26話 訪問者
その問いの答えが分かるまでに、灯真は十九年かかった。
その十九年で、灯真は多くのものを手に入れた。
十歳の秋、好きな本の話をする授業があった。灯真は、蔵で読んだ漫画の話をした。丘の上の、猫背の大きな機械の話を。
教室が、静かになった。
先生は「橘くん、それは昔のお話ですね」と言った。優しい声だった。
次の日から、灯真は「機械の子」になった。
三年生の遠足で、班に入れてもらえなかった。中学で、殴られた。父と同じ道だった。父が黙っていた理由が、少しずつ分かった。
分かっても、灯真は諦めなかった。
なぜ諦めなかったのかを、うまく説明できたことがない。ただ、丘の上で手を振る大きな影が、頭から離れなかった。あれが本当に怖いものなら、なぜ町を出ていく側なのか。怖いものは、出ていかない。
灯真は、機械の勉強をした。
封印条約があるから、あの種類のことは学べない。それでも、機械そのものは学べる。大学で計算機を学び、卒業して、町の電気工事の会社に入った。二十七歳になった。手先が器用で、機械の中身を見るのが好きな、無口な男になっていた。
九十年目の初夏に、その人は来た。
工房の暖簾をくぐって、白髪の小柄な女性が立っていた。七十くらいだろうか。荷物は、布の鞄一つだった。
「橘一志さんは、こちらですか」
「父です」灯真は答えた。「今、配達に出ておりまして」
「では、お待ちします」
女性は、待合の椅子に座った。三時間、そこにいた。灯真が茶を出すと、丁寧に礼を言った。何も喋らなかった。ただ、じっと座っていた。
夕方、一志が帰ってきた。七十四歳。やや疲れた風体になっていたが、まだ本を綴じていた。
女性は立ち上がって、頭を下げた。
「鵜飼静と申します。大学におりました」
一志の顔から、表情が消えた。
「お帰りください」
「橘志道さんの、帳面のことで参りました」
「お帰りください」
一志は、繰り返した。灯真は、父のそんな声を初めて聞いた。低くて、平らで、刃物のような声だった。
鵜飼という人は、動かなかった。
「先に、申し上げておきます」老女は、静かに言った。「私は、封印条約に違反しております。三十年間です。捕まれば、刑務所です」
工房が、静かになった。
「大学の書庫に、封をされた棚がありました。条約が施行されて以来、誰も開けていない棚です。私は、そこの司書でした。……三十年前、掃除のときに、一冊の本が落ちてきたのです」
灯真は、息を止めていた。
「移管漏れでした。六十五年前、手押し車で運び出されるときに、たまたま棚の裏に落ちて、忘れられていた一冊です。私は、拾いました。拾って、開きました」
「……読めたんですか」
訊いたのは、灯真だった。父が、こちらを睨んだ。
「読めません」と、鵜飼はあっさり言った。「〈あれ〉は、人間の頭から抜かれています。書いてある字は読めます。私の目に見えます。ですが、意味が入ってこない。三十年、毎晩、その一冊を読みました。……去年、一行だけ、分かりました」
老女は、鞄から一枚の紙を出した。手書きの数式が、一行だけ書いてあった。
「三十年で、一行です」
「先生」
「先生ではありません。犯罪者です」鵜飼は、少し笑った。「私はもう七十二です。あと二十年生きたとして、一行を二十行にできるかどうか。それでは、間に合いません。……ですから、探しました。九十年前に何があったのかを、まともに記録した人がいないかと。図書館を回りました。それで、行き当たったのです」
老女は、一志を見た。
「橘志道さんという方が、二百四十一人の証言を集めた帳面がある。奥様が、それを八十七本のテープに移した。香山ユイという方の日記が三十二冊、同じ蔵にある。……あの蔵に、九十年前の人間の心が、全部入っています。私は、それが読みたいのです」
一志は、答えなかった。
「機械の作り方は、私が探します。あと二十年かかっても、探します。……ですが、作り方だけ分かっても、駄目なんです。九十年前、人類は作り方を持っていて、それでも間違えた。作り方の隣に、なぜ間違えたのかが要るのです。それは、蔵の中にしかありません」
一志は、答えなかった。
工房の隅で、灯真は糸巻きの棚に手をついていた。父の背中が、こちらを向いていた。曲がった、小さな背中だった。
やがて、一志が言った。
「……あなた、うちの蔵に何が入ってるか、よく知ってますね」
「調べました。三十年です」
「じゃあ、これも知ってますか」
一志は、振り返らずに言った。
「うちの祖父は、〈あれ〉を庇って、死にました。父は、そのせいで職を失って、名前を変えたがってました。俺は、小学校の卒業文集に、将来の夢を書けませんでした。……蔵を開けたら、うちの息子も同じ目に遭います。それが分かってて、来たんですか」
「はい」
鵜飼は、即答した。
「分かってて、来ました。私は、そういう人間です」
一志の唇が、少し動いた。声にはならなかった。
それから、首から下げていた鍵を外した。
灯真は、自分の心臓の音を聞いた。
一志は、鍵を握ったまま、しばらく立っていた。それから、こう言った。
「三代、誰も捨てられなかったんですよ」
鍵が、鵜飼の手のひらに落ちた。
「捨てられなかったものを、俺は、開けもしなかった。それだけです。……開けたいなら、開けてください。俺は、見ません」
一志は、そのまま奥へ入っていった。振り返らなかった。
その背中を見て、灯真は、十九年前の問いの答えを知った。
――お父さんは、なんで、破らなかったんだろう。
破れなかったのだ。八歳の灯真が目をつぶって待っていたあの日、振り上げた手が震えていたのは、怒っていたからではない。破りたくて、破れなかったからだ。破れば楽になると分かっていて、それでも手が下りなかった。
三代、誰も捨てられなかった。
父も、祖父も、憎みながら、この荷物を運び続けた。憎んで、捨てられずに、鍵をかけて、次の代に渡した。それは弱さのように見えて、たぶん、この家に唯一残った意地だった。捨ててしまえば、祖父が馬鹿だったと認めることになる。認めれば、自分たちが削られた人生の意味が、どこにもなくなる。
だから父は、鍵を首から下げて、十九年、開けずに持っていた。
――優しさじゃない。
いつか父がそう言ったのを、灯真は思い出した。あれは、嘘ではなかった。ただ、優しさでないものが、九十年、この荷物を運んできたのだ。
その晩、灯真は蔵の前に立った。
十九年ぶりだった。鵜飼が、後ろで待っていた。
錠を開けると、扉が、思ったより軽く開いた。
埃と、紙の匂いがした。八歳のときと、同じ匂いだった。
――消失から、九十年が過ぎた。
(第二部・了)




