第25話 蔵の子
灯真が蔵の鍵を見つけたのは、その冬だった。
工房の道具箱の、いちばん下の引き出しの、糸巻きの下にあった。父の手が、そこだけ触らないようにしているのを、灯真はずっと前から知っていた。八つの子どもは、大人が触らない場所をよく見ている。
日曜の午後だった。父は配達に出ていた。母は買い物だった。
蔵の扉は、思ったより軽く開いた。
埃と、紙の匂いがした。工房と同じ匂いだ。それだけで、灯真は少し安心した。危ないものなど、何もなさそうだった。
窓のない蔵の中は、暗かった。灯真は懐中電灯を持ってきていた。光の輪を回すと、木の箱と、段ボールと、菓子の缶が並んでいた。缶の中には、黒い四角いものが、たくさん入っていた。何なのか、分からなかった。
分厚い黒い本のようなものもあった。輪ゴムで留めてある。開こうとして、輪ゴムが古くて切れた。中は、文字だった。読めない字だった。手書きで、震えていて、ところどころ薄くて、八歳には何ひとつ読めなかった。
灯真は、それを元に戻した。
ノートも三十冊ほどあった。表紙に、年が書いてある。これも字ばかりだった。
つまらないな、と灯真は思った。
そして、いちばん奥の木箱を開けた。
絵本が三十冊、入っていた。表紙が、どれもきれいだった。その隣に、もう一つ、小さな箱があった。
その中に、それはあった。
古い漫画だった。ひどく古い。紙が茶色くなって、角が丸くなっていた。表紙に、夕焼けの空が描いてあって、その下に、少年と、大きな機械が、並んで立っていた。機械は、人の形をしていた。頭があって、手があって、少し猫背だった。
『ゆうやけのロク』
灯真は、床に座って、それを開いた。
日が暮れるまで、動かなかった。
――ロクは、ぼくの友だちです。
そういう話だった。少年と、ロクという名前の機械の話。ロクは力持ちで、少し間抜けで、少年が泣くと、どうしていいか分からなくて、そばに座る。ただ座る。それだけの場面が、三ページ続く。
町の人は、ロクを怖がる。ロクが川に落ちた子どもを助けても、怖がる。すごい力だ、と言って、いっそう怖がる。なくした指輪を泥の中から見つけても、どうして分かったのか、と怖がる。少年が「ロクはやさしいよ」と言っても、大人たちは首を振る。
「やさしいから、怖いんだ」と、町の大人が言う。
灯真は、その台詞のところで、しばらく手が止まった。よく分からなかった。でも、胸のあたりが、変な感じになった。
各話の最後は、いつも同じだった。
日が暮れて、少年が家に帰る。ロクが、丘の上で手を振る。そして、こう言う。
――“また明日。”
少年も手を振って、答える。
――「うん。また明日。」
それが、毎回だった。何度も何度も、同じ言葉が出てきた。灯真は、そのページが好きだった。
第二巻の最後で、ロクは町を出ていく。町の人が怖がるからだ。少年は追いかけて、泣いて、行かないでと言う。ロクは、少年の頭を大きな手で撫でて、それから、いつもの言葉を言う。
――“また明日。”
でも、次の日、ロクは来ない。
そこで、話は終わっていた。第三巻は、蔵になかった。
灯真は、暗くなった蔵の中で、懐中電灯を消して、しばらく座っていた。
――また明日って、言ったのに。
そう思った。八歳の胸には、大きすぎる感じだった。
その日から、灯真は蔵の子になった。
父が配達に出る日を、覚えた。母が買い物に行く時間を、覚えた。懐中電灯の電池を、こっそり替えた。『ゆうやけのロク』を、全部で百回以上は読んだと思う。読むたびに、丘の上の大きな手が、丘の上で振られるのを見た。
半年後の春に、父に見つかった。
蔵の中で、懐中電灯の光の輪の中で、灯真は漫画を開いていた。扉が開いた音に、顔を上げた。逆光の中に、父が立っていた。
一志は、何も言わなかった。
ゆっくり歩いてきて、灯真の手から漫画を取り上げた。表紙を見た。夕焼けと、少年と、猫背の機械を。
そして、父の手が、震え始めた。
「……お前」
灯真は、初めて父が怖いと思った。
「これを、読んだのか」
「ごめんなさい」
「読んだのかって、訊いてる」
「うん、読んだ」
一志は、漫画を持った手を、振り上げた。
引き裂くのだと、灯真は思った。目をつぶった。
音は、しなかった。
長い時間が経って、目を開けると、父はまだ振り上げた手を止めていた。歯を食いしばって、顔を歪めて、腕が震えていた。それは、怒っている人の顔ではなかった。灯真には、そのとき、それが何の顔なのか分からなかった。
一志は、腕を下ろした。
漫画を、そっと箱に戻した。丁寧すぎるほど丁寧に、角を揃えて、蓋をした。
それから、息子を見ずに言った。
「灯真」
「はい」
「作るなよ」
「……」
一志は、そこで初めて、灯真を見た。
「お前は、作るなよ」
「……何を」
「何もだ」
父は、蔵を出ていった。灯真は、暗い中に残された。
その日から、蔵には新しい錠がついた。鍵は、父が首から下げた。
灯真は、泣かなかった。泣くかわりに、その晩、布団の中で、ずっと考えていた。
――お父さんは、なんで、破らなかったんだろう。




