第24話 紙の時代
消失から七十一年。橘志道の孫・一志は、五十五歳の製本職人になっていた。
本を綴じる仕事は、この時代、珍しいものではなくなっていた。町に一軒は製本所がある。学校の教科書も、役所の書類も、病院のカルテも、多くが紙だった。
電話はある。画面もある。計算をする箱は、役所にも会社にも置いてある。ただ、どの箱の前にも、人間が座っていた。箱は、命じたことだけをする。人が一つずつ手で動かし、目で確かめた。
画面の向こうに判断を委ねる暮らしを、人々は選ばなかった。そして、百年残すと決めた記録だけは、みな、紙を選んだ。燃やさないかぎり、紙は残るからである。
不便ではあった。しかし誰も、そう思っていなかった。
一志が子どもの頃、歴史の授業で習ったことがある。記録に残るかぎり、世界のどこをとっても国同士の戦争がなかった年は、たった六年しかなかったそうだ。
教室が、静かになった。
「みなさんが生まれてから、一度もありません。大消失の朝から、三十年、ありません」
はじめの十年は、疑いが世界を止めた。どこかの国が〈あれ〉を隠し持っているのではないか。動けば、その国に潰される。疑いが薄れた頃には、別の縛りができていた。次に〈あれ〉を手にした国が、世界を決める。各国は条約を守るふりをして、こっそり研究を続けている――そういう噂だけが、絶えたことがない。
授業の終わりに、誰かが手を挙げて訊いた。じゃあ、どこかの国が先に作ったら、どうなるんですか。
先生は、しばらく黙ってから、次の単元に移った。
あれから、四十年が経つ。先生はとうに亡くなり、それでも、大きな戦争は起きていない。合わせて七十年。六年しかなかったものが、七十年続いている。
誰も、その理由をうまく説明できないでいる。
一志の工房には、朝から人が来る。破れた本を持ってきて、三十分かかりますよと言うと、たいてい座って待っている。待つあいだ、客は喋る。孫の話。膝の話。畑の話。一志は手を動かしながら、うん、うん、と聞いている。
そういう世の中になっていた。
その日の午前中は、町医者が来た。
分厚い医学書を抱えて、背が割れたのを直してくれと言う。年配の女医だった。首から聴診器を下げている。ずいぶん古い。金具が擦り切れて、色が変わっていた。
「先生。それ、ずいぶん使い込んでますね」
「これね」女医は、聴診器を持ち上げた。「もらいものなんですよ。私の先生から。その先生も、そのまた先生からもらったって。」
「捨てないんですか。新しいのを買えばいいのに」
「捨てられませんよ、これはね」
女医は、当たり前のように言った。
「先生から言われたんです。これはお前のじゃない、医者のだ、って。……たぶん、いちばん最初の先生も、同じこと言われたんでしょうね」
一志は、うん、うん、と聞きながら、糸をかけた。三十分で本は直った。女医は代金を置いて、聴診器を揺らして帰っていった。
首から下げて渡していけば、百年もつのか。一志は、そう思った。それだけだった。その日はもう、そのことを思い出さなかった。
七十一年前に何が起きたのかを、いまの若い者は、教科書の二行でしか知らない。試験に出るのは名称だけだ。「大消失」。それで終わりだった。
大人たちは、よく喋る。よく待つ。よく間違える。帳簿の計算を間違えて、三日後に気づいて、謝りに行く。道に迷って、人に訊く。訊かれたほうも分からなくて、二人で地図を覗き込む。
そういう世の中を、一志は、悪くないと思っていた。
不便のぶんだけ、人と喋る。喋るから、顔を覚える。顔を覚えるから、無下にできない。この町では、誰も他人になりきれない。息が詰まることもある。それでも一志は、この世の中で本を綴じていることを、幸福だと思っていた。本心だった。
五十五になる。仕事は途切れない。夜は本を読む。父も、祖父も、もう死んだ。あの名前を知っている人間は、この町にもう一人もいない。
妻がいて、息子が一人いる。
所帯を持ったのは、四十六のときだった。橘という姓は、ありふれてはいないが、それほど珍しくもない姓だ。それでも、履歴書に書けば、たまに顔色の変わる人がいた。十代で殴られ、二十代で就職に躓き、三十代は、見合いや結婚の話が三度、途中で消えた。理由を言われたことは一度もない。言われなくても、分かる。
諦めていた四十四のときに、いまの妻と会った。姓のことを話したら、そうなんですね、と言って、それきり訊かなかった。二年後に所帯を持って、その翌年に、息子が生まれた。四十七だった。
初めて抱いたとき、一志は、産院の廊下で声を上げて泣いた。看護師がその声に驚いて出てきた。四十七年かけて、やっと手に入れたものだった。
子どもの頃、机に落書きされてから、一志が「橘志道の孫」でなくなるまでに、五十年かかった。
すべて、七十一年前の出来事から始まった。
その日の朝を、一志は憎んだことがない。憎んでも仕方がない。天災のようなものだ。一志が憎んだのは、そのあとの人間だった。落書きをした同級生。殴った先輩。顔色を変えた面接官。――そして、〈あれ〉を庇い続けた祖父。
「〈あれ〉は、何もしていません」
映像で見た。何度も見た。廊下でマイクに囲まれた研究者が、はっきりとそう言うのを。あの一言が、橘家の百年を決めた。庇わなければ、うちは「災厄を作った家」で済んだ。庇ったから、「災厄の味方をした家」になった。
分からない、と一志は思う。何もしていないなら、なぜ消えた。何もしていないものが、どうして俺の人生をここまで削れる。
庭に、蔵がある。
漆喰の壁の、古い蔵だ。中には、三代ぶんの荷物が入っている。祖父の黒い革の手帳。祖母のテープ八十七本。誰かが送ってきた絵本が三十冊。そして、香山という人が持ち込んだ日記が三十二冊。
十八年前、一志は自分の手でその箱を運び入れた。運び入れて、鍵をかけた。以来、一度も開けていない。
捨てなかった。捨てられなかった。三代、誰も捨てられなかった。優しさではない。一志は、それをはっきり自覚している。捨てれば、認めることになるからだ。あの人たちが馬鹿だったと、認めることに。
――祖父さんが馬鹿だったなら、俺の子ども時代は、何だったんだ。
だから、蔵は開かない。開けないまま、鍵は一志が持っている。
工房の窓から、庭が見える。蔵の白い壁が、夕方の光を受けている。八歳になる息子が、その前で、ひとりで遊んでいた。
「灯真」、と一志は呼んだ。息子が振り返って、走ってきた。
「そっちは行くなよ」
「なんで」
「危ないから」
いつもと同じやりとりだった。息子は「はあい」と言って、また庭のほうへ走っていった。
一志は、鉋の刃を研ぎ直した。手が覚えている仕事だった。手を動かしていれば、余計なことを考えずにすむ。
七十一年目の秋のことだった。




