第23話 蔵
沢井の葬儀に、ハルは来なかった。
来なかったのか、知らされなかったのかも、分からなかった。白い服の人たちは、その頃にはもう、街にほとんど見かけなくなっていた。教団は、五十年目を待たずに、静かに小さくなっていった。理由は簡単だった。忘れたい人たちが、みんな、本当に忘れてしまったからだ。
――忘れたい人は、忘れられた。忘れられない人だけが、残った。
その年の日記に、ユイはそう書いている。
五十三年目の秋。八十三歳になったユイは、段ボール箱を三つ、宅配で送った。
送り先は、隣の県の橘家だった。中身は、五十三年ぶんの日記。三十一冊。表紙に年を書いて、順番に詰めた。梱包に二日かかった。
そのあと、自分で電車に乗った。
橘家は、古い平屋だった。庭に、大きな蔵があった。志道が家を売ってから、一家が移り住んだ家だと聞いていた。玄関に出てきたのは、四十前の男だった。
一志だった。三十年前、千鶴の葬儀の後ろの席で見た少年が、目の前にいた。
「香山と申します。……あの、荷物が」
「届いてます」
一志は、玄関の三和土に置かれた三つの箱の方を見た。開けた様子はなかった。
「あの、これは、私の日記です。五十三年ぶんです。……ご迷惑なのは、分かっております。」
「なぜ、うちに」
一志の声は、丁寧だった。丁寧すぎて、冷たかった。
「他に、置くところがないんです」
ユイは、正直に言った。
「私、子どもがいないんです。夫も、もう。……病院に置いてもらう話もありましたが、あそこは十年経てば、たぶん捨てます。役所も同じです。誰も、こんなもの、五十年は持ちません」
「うちなら持つと」
「橘さんのお宅なら」
一志は、しばらく黙って、箱を見ていた。
それから、こんなことを言った。
「香山さん。うちの蔵に、何が入ってるかご存じですか」
「……お帳面と、テープと」
「はい。あと、絵本が三十冊。誰が送ってきたか知りませんが、これは証言だとメモが入っていました」一志は、感情のない声で言った。「うちの祖父が始めて、祖母が続けて、父が捨てられなくて、僕は触りもしなかった。三代目です」
ユイは、何も言えなかった。
「僕は、〈あれ〉が嫌いです」
一志は、まっすぐにユイを見た。
「〈あれ〉のせいで、祖父は犯人にされました。父は仕事を失って、名前を変えたがってました。僕は、小学校の卒業文集に、何も書けませんでした。将来の夢を書く欄で、みんなが医者とかサッカー選手とか書いてる横で、僕は……書きたいことが、一つだけあった。でも、書けなかった。書いたら、殺されると思ったから」
ユイの背中が、寒くなった。
「あなたたちは」一志は言った。「なんで、そんなに、必死なんですか」
秋の陽が、玄関の格子から斜めに差していた。
ユイは、少し考えて、正直に答えることにした。
「棚橋先生っていう、お医者さんがいたんです。四十年ほど前に亡くなった人です。その人が、私に言ったんですよ。取られんものを持っとる人間は、強いんだ、って」
「……はあ」
「私、それがずっと嬉しくて。書いてれば強いんだと思って、五十三年、書いたんです」
ユイは、三つの箱を見た。
「でも、こういうことなんですね。取られないものを持ったまま、渡すところがなくて、他人様の玄関で頭を下げてる。強くなんか、なかった」
一志は、答えなかった。
作業台の上で、糊の刷毛が乾いていった。それからで、男は箱を一つ持ち上げた。それから、二つ目を持ち上げて、三つ目を持ち上げて、廊下の奥へ運んでいった。三往復した。ユイは、玄関に立ったまま、それを見ていた。
戻ってきた一志は、少しだけ息を切らして、こう言った。
「蔵に、入れておきます。誰も開けません。僕も開けません」
「……それで、十分です」
「捨てはしません」一志は、目を逸らして言った。「捨てられないんですよ、うちは。三代、誰も捨てられなかった。……それだけです。優しさじゃない」
「ええ」
ユイは、深く頭を下げた。
「それだけで、十分です」
帰りの電車で、ユイは窓の外を見ていた。
田んぼが流れて、川が流れて、夕方の光が流れていった。八十三年ぶんの景色を、こうやって見てきた。日記は、もう手元にない。書くものがなくなって、鞄が軽かった。
――でも、書ける。
ユイはそう思って、駅前の文具店で、新しいノートを一冊買った。
香山ユイは、八十七歳で亡くなった。
四年間、三十二冊目のノートに書き続けた。
最後の一年は、真野が週に一度、様子を見に来ていた。八十を過ぎた元院長が、九十近い元受付主任のアパートに、聴診器を持って通っていた。「往診です」と本人は言い張ったが、ユイに言わせれば「暇なだけ」だった。二人は、たいてい昔話をした。棚橋先生の口癖。橘さんの震える字。あの朝、厚紙を切ったこと。
最後に会った日、真野が帰りぎわに訊いた。
「香山さん。まだ、分からないままですか」
「分からないままです」
ユイは、笑って言った。
「でも、書いてあります。分からなかった、って書いてあるんだから、それでいいでしょう」
真野は、帽子をかぶり直して、帰っていった。
その三日後の朝、ユイは、一人暮らしのアパートで亡くなっているのが見つかった。膝の上に、ノートが開いたまま乗っていた。
最後のページには、日付と、二行だけ書いてあった。
「五十七年前の朝、あの一行を読んだ。ずっと引っかかったまま、ここまで来た。分からないまま、終わる」
そして、その下に。
「もし、いつか、もう一度、会えるなら。訊いてみたい。――どうして、消えたんですか。それだけ、訊いてみたい」
ユイは、答えを聞かないまま、生涯を終えた。
三十二冊目のノートは、真野の手で、隣の県の蔵へ運ばれた。
――消失から、五十七年が過ぎた、ある日の出来事である。




