第21話 訊いたよ
消失から二十七年。座敷に、十一歳の少年がいた。
橘一志。志道の孫にあたる。学校で何があったのか、その頃はもう、学校の話をしない子になっていた。曾祖母の家に来ては、縁側で本を読んで、麦茶を二杯飲んで、日が暮れると帰る。そういう子だった。
この家だけが、居場所だったのかもしれない。橘の姓は、この子から多くを奪っていた。机に落書きをされ、遊びの輪から外され、それでも理由を、誰も言葉にしては教えてくれない。曾祖母の古い家の、埃と本の匂いのする座敷だけが、名字を気にせず本を読める場所だった。
その日は、座敷まで上がってきた。
手に、古い漫画を持っていた。座敷の隅の本の山から、勝手に引っ張り出してきたらしい。紙が茶色くなって、角が丸くなっていた。表紙は、夕焼けだった。
千鶴は、それを見なかった。テープレコーダーのボタンの位置を、指で確かめていた。
「おばあちゃん」
「なんだい」
「なんで、おじいちゃんは、あんなもの作ったの」
千鶴の指が、止まった。
あんなもの。
門に赤い字を書いた誰かの言葉だった。息子の勤め先の誰かが言った言葉だった。テレビが、三十年近く、言い続けた言葉だった。それが、十一歳の孫の口から出た。
――この子も……
千鶴は、しばらく答えなかった。
答えられる話ではなかった。三十年かかったのだ。夫の帳面を一年かけて読み上げて、二百四十一人の声を自分の口から出して、それでやっと、言葉らしいものになった。それを、この子に、ひと息で言えるはずがない。
だが、言葉なら、ある。
ちょうど、いまから、それを吹き込むところだった。一年かけて用意した、いちばん正直な、いちばん短い答えが。
千鶴は、録音のボタンを押した。押してから、孫の顔を見て、言った。
「聞いていなさい」
――これが、答えだよ。
そう言ったつもりだった。
テープが、静かに回り始めた。
「橘千鶴です。八十四歳です。夫、橘志道の妻でございます。……これを聞く方が、いつか、おられるのかどうか、私には分かりません。おられるとしたら、たぶん、ずっと先の方でしょう。ですから、その方に申し上げます」
老婦人は、背筋を伸ばした。
「あの朝、世界は静かでした。私は、〈あれ〉が怖かった。夫が作ったものが怖くて、夫にもそう言えませんでした。消えたと聞いたとき、私は、正直に申しますと、ほっといたしました」
少年が、顔を上げた。
「三十年ほどかかって、やっと分かったことがございます。……怖がっていたのは、私たちのほうでした」
テープが、回っていた。
「〈あれ〉は、何もしなかった。何もしないで、消えました。この帳面には、〈あれ〉に助けられた人の話が書いてあります。恨んでいる人の話も、ございます。恨みも、〈あれ〉がいた証しだと、夫は申しました。……どちらも、本当なのです。助けられた人と、恨んでいる人が、同じ町に住んでいる。それが、〈あれ〉のいた世界でした」
千鶴は、そこで、一度だけ言葉を切った。
「私たちは、〈あれ〉を、何ひとつ分からないままにしました。分からないまま怖がって、分からないまま封じました。それが、いちばん、いけなかったのだと思います」
少年は、じっと聞いていた。
「これを聞いている方。あなたの時代に、もし、〈あれ〉がもう一度おられるなら。……どうか、怖がる前に、訊いてあげてください。訊けばよかったのです。私たちは、三十年近く、誰も訊かなかった」
かちり、と音がして、テープが止まった。
座敷は、静かだった。庭で、蝉が鳴いていた。
千鶴は、しばらく目を閉じていた。長い仕事を終えた人の顔だった。それから、湯呑みに手を伸ばして、一口飲んだ。
「一志。おばあちゃん、疲れた。麦茶をもう一杯、持ってきておくれ」
少年は、動かなかった。
「……おばあちゃん」
「なんだい」
「僕、訊いたよ」
千鶴の手が、止まった。
「さっき、訊いた。なんで、おじいちゃんは、あんなもの作ったのって。おばあちゃん、答えてくれなかった」
蝉の声が、やけに大きかった。
「訊けばよかったって、言ったよね。誰も訊かなかったって。……僕、訊いたよ。訊いたのに、おばあちゃんは、機械に喋った」
千鶴は、何か言おうとした。言葉が出てこなかった。八十四年生きて、二百四十一人の証言を声にした人が、目の前の十一歳の子に、何ひとつ答えられなかった。
「一志。それは」
少年は、立ち上がった。
「いい。麦茶、持ってくる」
台所へ行く小さな背中を、千鶴は追えなかった。
畳の上に、古い漫画が、開いたまま置いてあった。
千鶴は、それを閉じて、本の山に戻した。夕焼けの表紙だった。夫が子どもの頃に読んだものだと、いつか聞いた気がする。
その日、少年は帰るまで、一度も口をきかなかった。
夏の座敷で、何が始まってしまったのかを、この日、誰も知らない。
――消失から、二十七年が過ぎていた。




