第20話 声
葬儀は、驚くほど小さかった。
参列者は二十人ほど。息子夫婦と、十歳になる孫が一人。あとは、証言者の中から、体の動く数人が来ていた。沢井の姿があった。七十を過ぎて、ずいぶん縮んでいたが、背筋は伸びていた。真野も来ていた。
門扉に赤い字を書かれた家は、とうに人手に渡っている。斎場の受付には、故人の名前だけが小さく出ていた。二十六年前、世界中が知っていた名前だった。
喪主の挨拶を、志道の妻が読んだ。
橘千鶴。八十三歳。小柄で、背中の丸い人だった。志道より八つ若かったが、同じように手が震えていて、紙が音を立てた。それでも、声は、しっかりしていた。
「主人は、皆さまに、たいへんなご迷惑をおかけしました」
型どおりの詫びは、そこまでだった。
「主人は最後まで、自分の作ったものを、悪く言いませんでした。私は、それが嫌でした。……〈あれ〉のせいで、息子は職を失い、孫は学校でひどい目に遭った。それでも主人は、〈あれ〉を敵だとは言わなかった。二十六年、私は主人と、その話ができませんでした」
千鶴は、手元の紙を置いた。
「ただ、二十三年前に、一度だけ、話せました。主人が、ある方の証言を私に読ませたのです。病院の受付の方の、短い言葉でした」
ユイは、息を止めた。
「『――絶縁状に、願うなんて書くだろうか』。それだけの言葉です。三度読みました。読んでいるうちに、涙が出ました。……そんなことは、私が言いたかったのです。私が言いたくて、言えなかったことでした」
千鶴は、顔を上げた。
「主人の帳面は、私がお預かりします。まだ、白いところが残っておりますので」
葬儀のあと、ユイは千鶴に呼び止められた。
「香山さん、でしょう。……あなたが」
千鶴は、ユイの手を両手で握った。骨の浮いた、冷たい手だった。
「ありがとうございました。あの人を、犯人じゃないと言ってくださって」
「私は、何も」
「あの人ね」千鶴は、少し笑った。「あなたの証言を書いた日、帰ってきて、初めて笑顔をみせたんです。玄関で、靴も脱がないで。〈あれ〉が消えて以来、私の前でいっぺんも笑わなかった人が」
その年の秋から、ユイは月に二度、千鶴の家に通うようになった。手伝いのつもりだったが、手伝えることは何もない。ユイの仕事は、座卓の向かいに座って、聞いていることだけだった。
千鶴は、証言者を訪ねる旅には出なかった。出られる体ではなかった。代わりに、手帳を読んだ。夫の遺した二百四十一人の証言を、一行ずつ声に出して読み、テープに吹き込んでいた。その古いテープレコーダーは、ボタンが大きくて、押しやすかった。朝に一時間。目が痛くなるので、一日に進むのは多くて二人ぶんだった。
「香山さん。ここ、なんて読めます?」
千鶴が手帳を差し出す。ユイが覗き込む。震える細い字が、途中でかすれて消えている。二人で顔を寄せて、しばらく唸る。前後の文脈から見当をつける。それでも分からないところは、飛ばした。
「飛ばしていいんですか」
「いけません」千鶴は、続けてこう言った。「ですから、こう入れます」
老婦人は録音のボタンを押して、こう吹き込んだ。
「――ここは、読めません。夫の字が、かすれております。私には、分かりませんでした」
ユイは、驚いた。
「そのまま、残すんですか」
「分かったふりをするほうが、罪でございましょう」千鶴はニコリとしてこちらを見た。「読めないところは、読めないと言っておく。そうすれば、いつか、読める人が現れたときに、そこを見てくれます」
その日、ユイは家に帰って、日記に書いた。「読めないところを、読めないまま残す。それが、いちばん正直な残し方なのだと、千鶴さんは言った」
冬に入った頃、千鶴が、ふとこんなことを訊いた。
「香山さん。これ、何年もちますでしょうね」
テープの缶を見ていた。
ユイは答えられなかった。次の月まで待ってもらって、電器屋で訊いてきた。年配の店主は、しばらく考えて、こう言った。
「まあ、五十年くらいですかね。湿気を吸わなきゃ、もう少し。……でも、伸びますよ、テープは。伸びたら、声が変わります。低くなったり、途切れたり」
ユイがそれを伝えると、千鶴は「五十年」と繰り返した。
「足りませんね」
あっさりした言い方だった。
「あの人は、百年と言っておりました。未来の読み手は疑り深いだろう、百年も経てば、と。……百年もつものが、私には作れません。紙は読めなくなる。テープは伸びる。私の声も、そのうち出なくなります」
「じゃあ、どうして」
ユイは、訊いてしまった。訊いてから、失礼だったと思った。
千鶴は、怒らなかった。テープの缶に手を置いて、こう言った。
「私にできるのが、これだけだからです」
老婦人は、テープの缶を撫でた。
「五十年で伸びるなら、五十年のあいだに、誰かが写してくれるかもしれません。写さなければ、そこで終わりです。終わらせるのは、いつでもできます。……伸びてもいいんですよ。伸びたテープでも、ないよりは、ずっといい」
その言葉を、ユイはその夜、日記に書き写した。書き終えて、鉛筆の芯が丸くなっていた。
千鶴の作業は、一年かかった。
テープは、八十七本になった。菓子の空き缶に、日付を書いた紙を貼って並べてある。座敷の隅で、それは小さな塔のようになっていた。
読み終えた日、千鶴はユイに麦茶を出して、こう言った。
「終わりました」
「お疲れさまでした」
「香山さん。あのね」老婦人は、テープの缶を見ていた。「私、夫が嫌いでした」
ユイは、コップを置いた。
「あの朝から、あの人の作ったもののせいで、家族が壊れました。息子は職を失って、孫は学校でひどい目に遭って。それなのにあの人は、〈あれ〉を敵だとは言わなかった。……ひどい人でしょう」
「……はい」
「はい、って」千鶴が笑った。声を出して笑った。「あなた、正直な人ね」
それから、老婦人は真顔になった。
「でもね。この一年、あの人の字を読んで、あの人の集めた声を、私の声で言い直しました。二百四十一人ぶん。……終わってみたら、私は、あの人のことが、分かってしまったんです」
千鶴は、コップの麦茶を一口飲んだ。
「あの人は、〈あれ〉を庇っていたんじゃない。あの人は、ただ、間違えたくなかったんです。何も分からないまま結論を出すのが、あの人には耐えられなかった。……学者ですね。最後まで、学者でした」
ユイも麦茶に口をつけた。
「……羨ましいです」
「まあ。何がです」
「私も長い間、夫とある話ができていません」ユイは、正直に言った。「優しい話にすると、また欲しくなるだろって言ったんですよ、あの人。私は正しいと思うと同時に、どこか少し違うと思った。それだけです。それだけのことを、二十四年、最後まで話していません」
千鶴は、しばらくユイの顔を見ていた。
それから、ささやくように言った。
「同じですねえ」
「えっ」
「同じ家に住んでいて、いちばん大事な話だけ、できないんですよ。……あの朝、みんなの家の茶の間に、大きくて重たいものが置かれたんです。誰も、それを片付けなかった。避けて通って、お味噌汁を飲んでいるうちに、二十七年経ってしまった」
ユイは、何も言えなかった。




