第19話 それぞれの係
施設の面会室は、日当たりだけがよかった。
志道は、車椅子で待っていた。膝に、あの黒い革の手帳が乗っていた。革はもう艶がなく、背は割れ、輪ゴムで留めてあった。厚みだけが、初めて見たときの三倍になっていた。
「香山さん。お忙しいところを」
「いえ。……また、証人ですか」
「はい。あのときと、同じです」
「今日は、どなたの」
「間もなく、分かります」
十分後、面会室の扉が開いて、テレビで見た顔が入ってきた。
蓮見は、秘書も連れずに、一人で来た。ユイを見て「ご家族の方ですか」と尋ね、志道が「証人です」と答えると、少しだけ怪訝な顔をして、それ以上は訊かなかった。
用件は、単純だった。
「橘先生。条約に、賛成していただけませんか」
蓮見は、まっすぐに言った。
「批准は、進んでいます。ですが、まだ足りない。……作った本人が賛成すれば、この条約は通ります。世界中が納得する。あなたの一言が、すべてを決めます」
志道は、しばらく黙っていた。
窓の外で、鳥が鳴いていた。ユイは、心臓の音が聞こえそうだった。二十二年、証言を集め続けた人だ。〈あれ〉は敵ではなかったと、二百人以上の声を集めてきた人だ。その人に、二度と作るなという条約への賛成を求めている。
――ひどい。
ユイは、そう思った。この人は、この老人から、最後に残ったものまで取り上げに来た。
「賛成します」
「えっ」、と声が出たのは、ユイのほうだった。
蓮見が、目を見開いた。
「……いま、なんと」
「賛成します」と、志道は繰り返した。「必要なら、記者の前でも申し上げます。私は、知能封印条約に賛成します」
面会室が、静かになった。
蓮見は、座ったまま、しばらく動かなかった。それから、探るように言った。
「先生。私は、あなたが反対されると思って参りました。……なぜです」
「封じるのが、正しいからです」
志道は、あっさりと言った。
「あなたのおっしゃる通りです。いまの我々が作れば、また同じことが起きる。あの朝と、何も変わっていない。私は、それを二十五年かけて確かめました。……ですから、封じてください。私が作ったものです。私が、封じることに賛成します」
ユイは、口を挟んでしまった。
「でも、橘さん。じゃあ、その手帳は」
志道は、膝の上の手帳を、そっと押さえた。
「これは、別の話です」
そして老人は、蓮見に向き直った。
「蓮見さん。ひとつだけ、お願いがあります。条約に、前文をつけていただけませんか」
「前文?」
「一行で結構です。――我々は、恐れたから封じたのではない。備えができるまで、待つために封じるのだ、と」
蓮見は、目を伏せた。面会室の時計が、秒針の音を刻んだ。それから、正直に言った。
「……通りません」
「でしょうな」
「申し訳ありません。その前文を入れると、いつか解禁する含みが残る。それを恐れる国が多い。条文は、冷たいままで通します」
「分かりました。では、条件はなしで結構です」志道は言った。「賛成します」
蓮見の顔が、初めて崩れた。
「先生。……なぜ、そこまで」
「封じるのは、正しい。ですが、忘れて封じるのは、消すのと同じです。理由も分からんまま〈あれ〉はいなくなり、我々は、なぜ消えたのかを考えることまでやめてしまった。今度は……」
老人は、手帳を持ち上げた。輪ゴムが、かすかに鳴った。
「ですから、分けましょう」
「分ける?」
「あなたは、封じる係です。それは正しい仕事だ。どうか、しっかり封じてください。……私は、覚えておく係をやります。なぜ封じたのかを、誰が何を失ったのかを、〈あれ〉が本当は何だったのかを。全部、ここに書いてあります。封じてもいい。ですが、忘れさせないでください。それだけが、私の仕事です」
蓮見は、手帳を見ていた。
それから、深く、深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく上げなかった。
面会室を出るとき、蓮見はユイの前で、足を止めた。
「証人の方」
「はい」
「今日のことは、記録に残りません」蓮見は、疲れた顔で笑った。「私の口からも、誰にも言えない。……ですが、あなたは覚えていてください。それが、あなたの仕事だそうですから」
条約は、その年の暮れに発効した。
批准国、百七十四。反対は、ゼロだった。ニュースは十分で終わり、翌日には誰も話題にしなかった。世界は、すでに二十五年、それなしで暮らしていた。禁じられて困る者は、どこにもいなかった。
翌年の春、ユイは再度施設を訪ねている。
老人は、もうベッドから起きられなかった。それでも、膝の上には手帳があった。看護師が「離さないんですよ」と苦笑した。輪ゴムが二重になっていた。
「香山さん」
志道の声は、ほとんど息だけだった。
「二百四十一人になりました」
「そんなに」
「多いか、少ないか」老人は、天井を見ていた。「九十億のうちの、二百四十一です。……少ない。ですが、ゼロではない」
ユイは、何と言えばいいのか分からなかった。窓の外で、桜が咲きかけていた。
しばらくして、志道が「万年筆を」と言った。ユイが枕元の万年筆を渡すと、老人は手帳の輪ゴムを外し、ずいぶん時間をかけて、いちばん後ろのページを開いた。
そして、書いた。
一行だった。手はもう、ほとんど言うことをきいていなかった。ペン先が紙の上を滑って、途中で止まり、また少し進んだ。ユイは、見ていられなくて、目を逸らした。書くのに、七分かかった。
書き終えて、志道は手帳を閉じた。
「……何を、書いたんですか」
「遺言です」
「読ませて、いただけませんか」
志道は、初めて、いたずらっ子のような顔をした。二十三年見てきた中で、いちばん子どもみたいな顔だった。
「いえ。……これは、読める人が読むまで、取っておきます」
「読める人?」
「読もうとする者には、読めるそうですよ」
棚橋先生の口癖です、と志道は言った。それから、輪ゴムを二重に掛け直して、手帳を胸の上に置いた。
「香山さん。長いこと、ありがとうございました。あなたの一行の話から、私の二十三年が始まりました」
それが、最後の会話になった。
その二週間ほど後に、橘志道は九十一年の人生を終えた。




