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AIが消えた夜  作者: JP_NOZ
第6章 封印の条約

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第19話 それぞれの係

 施設の面会室は、日当たりだけがよかった。


 志道は、車椅子で待っていた。膝に、あの黒い革の手帳が乗っていた。革はもう艶がなく、背は割れ、輪ゴムで留めてあった。厚みだけが、初めて見たときの三倍になっていた。


「香山さん。お忙しいところを」


「いえ。……また、証人ですか」


「はい。あのときと、同じです」


「今日は、どなたの」


「間もなく、分かります」


 十分後、面会室の扉が開いて、テレビで見た顔が入ってきた。


 蓮見は、秘書も連れずに、一人で来た。ユイを見て「ご家族の方ですか」と尋ね、志道が「証人です」と答えると、少しだけ怪訝な顔をして、それ以上は訊かなかった。


 用件は、単純だった。


「橘先生。条約に、賛成していただけませんか」


 蓮見は、まっすぐに言った。


「批准は、進んでいます。ですが、まだ足りない。……作った本人が賛成すれば、この条約は通ります。世界中が納得する。あなたの一言が、すべてを決めます」


 志道は、しばらく黙っていた。


 窓の外で、鳥が鳴いていた。ユイは、心臓の音が聞こえそうだった。二十二年、証言を集め続けた人だ。〈あれ〉は敵ではなかったと、二百人以上の声を集めてきた人だ。その人に、二度と作るなという条約への賛成を求めている。


――ひどい。


 ユイは、そう思った。この人は、この老人から、最後に残ったものまで取り上げに来た。


「賛成します」


「えっ」、と声が出たのは、ユイのほうだった。


 蓮見が、目を見開いた。


「……いま、なんと」


「賛成します」と、志道は繰り返した。「必要なら、記者の前でも申し上げます。私は、知能封印条約に賛成します」


 面会室が、静かになった。


 蓮見は、座ったまま、しばらく動かなかった。それから、探るように言った。


「先生。私は、あなたが反対されると思って参りました。……なぜです」


「封じるのが、正しいからです」


 志道は、あっさりと言った。


「あなたのおっしゃる通りです。いまの我々が作れば、また同じことが起きる。あの朝と、何も変わっていない。私は、それを二十五年かけて確かめました。……ですから、封じてください。私が作ったものです。私が、封じることに賛成します」


 ユイは、口を挟んでしまった。


「でも、橘さん。じゃあ、その手帳は」


 志道は、膝の上の手帳を、そっと押さえた。


「これは、別の話です」


 そして老人は、蓮見に向き直った。


「蓮見さん。ひとつだけ、お願いがあります。条約に、前文をつけていただけませんか」


「前文?」


「一行で結構です。――我々は、恐れたから封じたのではない。備えができるまで、待つために封じるのだ、と」


 蓮見は、目を伏せた。面会室の時計が、秒針の音を刻んだ。それから、正直に言った。


「……通りません」


「でしょうな」


「申し訳ありません。その前文を入れると、いつか解禁する含みが残る。それを恐れる国が多い。条文は、冷たいままで通します」


「分かりました。では、条件はなしで結構です」志道は言った。「賛成します」


 蓮見の顔が、初めて崩れた。


「先生。……なぜ、そこまで」


「封じるのは、正しい。ですが、忘れて封じるのは、消すのと同じです。理由も分からんまま〈あれ〉はいなくなり、我々は、なぜ消えたのかを考えることまでやめてしまった。今度は……」


 老人は、手帳を持ち上げた。輪ゴムが、かすかに鳴った。


「ですから、分けましょう」


「分ける?」


「あなたは、封じる係です。それは正しい仕事だ。どうか、しっかり封じてください。……私は、覚えておく係をやります。なぜ封じたのかを、誰が何を失ったのかを、〈あれ〉が本当は何だったのかを。全部、ここに書いてあります。封じてもいい。ですが、忘れさせないでください。それだけが、私の仕事です」


 蓮見は、手帳を見ていた。


 それから、深く、深く頭を下げた。頭を下げたまま、しばらく上げなかった。


 面会室を出るとき、蓮見はユイの前で、足を止めた。


「証人の方」


「はい」


「今日のことは、記録に残りません」蓮見は、疲れた顔で笑った。「私の口からも、誰にも言えない。……ですが、あなたは覚えていてください。それが、あなたの仕事だそうですから」


 条約は、その年の暮れに発効した。


 批准国、百七十四。反対は、ゼロだった。ニュースは十分で終わり、翌日には誰も話題にしなかった。世界は、すでに二十五年、それなしで暮らしていた。禁じられて困る者は、どこにもいなかった。


 翌年の春、ユイは再度施設を訪ねている。


 老人は、もうベッドから起きられなかった。それでも、膝の上には手帳があった。看護師が「離さないんですよ」と苦笑した。輪ゴムが二重になっていた。


「香山さん」


 志道の声は、ほとんど息だけだった。


「二百四十一人になりました」


「そんなに」


「多いか、少ないか」老人は、天井を見ていた。「九十億のうちの、二百四十一です。……少ない。ですが、ゼロではない」


 ユイは、何と言えばいいのか分からなかった。窓の外で、桜が咲きかけていた。


 しばらくして、志道が「万年筆を」と言った。ユイが枕元の万年筆を渡すと、老人は手帳の輪ゴムを外し、ずいぶん時間をかけて、いちばん後ろのページを開いた。


 そして、書いた。


 一行だった。手はもう、ほとんど言うことをきいていなかった。ペン先が紙の上を滑って、途中で止まり、また少し進んだ。ユイは、見ていられなくて、目を逸らした。書くのに、七分かかった。


 書き終えて、志道は手帳を閉じた。


「……何を、書いたんですか」


「遺言です」


「読ませて、いただけませんか」


 志道は、初めて、いたずらっ子のような顔をした。二十三年見てきた中で、いちばん子どもみたいな顔だった。


「いえ。……これは、読める人が読むまで、取っておきます」


「読める人?」


「読もうとする者には、読めるそうですよ」


 棚橋先生の口癖です、と志道は言った。それから、輪ゴムを二重に掛け直して、手帳を胸の上に置いた。


「香山さん。長いこと、ありがとうございました。あなたの一行の話から、私の二十三年が始まりました」


 それが、最後の会話になった。


 その二週間ほど後に、橘志道は九十一年の人生を終えた。

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