第17話 “また明日”
万年筆が、止まった。志道の表情が一瞬変わったように見えた。
「〈あれ〉も、答えるんです。“また明日”って。毎晩です。八歳まで、毎晩。……で、あの朝ですよ。あの子、起きてきて、私の顔見て、こう言ったんです」
沢井は、そこで初めて、顔を歪めた。
「また明日って言ったのに、って」
病室の隅で、ユイは動けなかった。ただ、じっと聞くことしかできなかった。
「あの子は、今、覚えてないと言います。子どもだったから、って。……確かに、八つです。忘れるかもしれません。いや、忘れて当たり前だ。世界中が、〈あれ〉は夢だったって言うんだ。二十そこそこの娘が、自分の八つの記憶と、世界と、どっちを信じますか」
沢井は、拳で目を拭った。
「でも、あったんだ。私は見ました。あの子が、『また明日』って言うのを。」
志道の手が、動いた。震える字が、白いページを進んでいった。
書き終えて、志道は顔を上げた。
「沢井さん。ありがとうございました」
「……これ、何になるんですか」
沢井は、力なく笑った。
「そんな帳面、何の証拠にもならんでしょう。爺さんの手書きだ。裁判所も学者も、鼻で笑いますよ」
「なりません」と、志道はあっさり言った。「証拠には、なりません」
「じゃあ」
「あの子が」
志道は、手帳の、書き終えたばかりのページを、そっと手のひらで押さえた。
「あの子が、いつか、思い出したくなった日のために」
沢井の顔が、崩れた。
十五年間、自分のことで一度も泣かなかった男が、そのとき初めて、声を上げて泣いた。ユイは、黙って部屋を出た。廊下は暗くて、誰もいなかった。
沢井は、その冬、探すのをやめた。
小さなアパートを借りて、駅前の駐輪場の仕事に就いた。ハルには、何も言わなかった。会いに行くことも、手紙を書くこともしなかった。ただ年に一度、娘の誕生日に、絵本を一冊買って、部屋の棚に並べたという。
その冬の終わり、ユイはもう一度、河原へ行った。
見に行っただけだ、と今回も自分に言い聞かせながら。焚き火は、あの春と同じ大きさだった。列に並ぶ人の顔ぶれだけが、少し入れ替わっていた。
土手の階段で、白い服のハルが、紙を配っていた。
ユイの顔を覚えていたらしい。「あ!」と小さく声を上げて、それから、いつかと同じ、とても優しい笑い方をした。
「また、来てくださったんですね」
「ううん。通りかかっただけ」
「そうですか」
風が冷たかった。ハルは配り終えた紙の束を胸に抱えて、少し迷うような顔をした。それから、こんなことを言った。
「あの。変なこと、訊いてもいいですか」
「なあに」
「“また明日”って言葉、なにか分かりますか?」
ユイは、息が止まった。
「時々、朝、目が覚めると、その言葉が頭の中にあるんです。誰が言ったのかも、誰に言ったのかも分からなくて。……夢でも見たんですかね。夢だとしたら、私、変ですよね。夢は覚えていなくていいって、みんなに言って回ってるのに」
ハルは、自分で言って、自分で笑った。
言ってしまおうか、とユイは思った。あなたのお父さんが、この町にいる。あなたが三つの頃から八つまで、毎晩、絵本を読んでもらっていた。読み終わると、あなたは必ず、『また明日』、と言った。〈あれ〉も“また明日”と答えた。それは全部、あった。全部、黒い革の手帳に書いてある。
言えば、この人の十五年が壊れる。
ユイの口が、開いて、閉じた。
「……夢じゃ、ないかもしれませんよ」
それだけ、言った。
ハルは、きょとんとした顔をして、それから、また笑った。丁寧に頭を下げて、次の人へ紙を配りに行った。白い背中が、土手の階段を上っていった。ユイは、見えなくなるまで見ていた。
その夜、日記に書いた。
「今日、言わなかった。いつか、あの人が思い出したくなった日のために、書いてある。書いてあるのだから、それでいい。それでいいはずだ」
そこまで書いて、鉛筆を置いた。しばらくして、もう一行だけ足した。
「あの子には“また明日”と言って、私たちには“もう二度と会うことがないことを願っている”と言った。同じものが、言ったのだ」
河原では、今日も静かな火が燃えている。
同じ町の、同じ時間に、震える字が白いページを埋めていく。
焼く人がいて、書く人がいた。どちらも、抱えきれないものを、どうにかしようとしている人たちだった。
――消失から、十五年が過ぎた。




