第16話 恨みも、書く
初秋の夕方、灰色のコートの老人が受付に現れた。
「橘と申します。真野先生と、お約束が」
八十歳になった志道は、ずいぶん小さくなっていた。旅の足は、この二年で杖に変わっていた。それでも、鞄の中の手帳は変わらず分厚く、表紙の革は使い込まれて、角が丸くなっていた。
真野が引き合わせたとき、沢井は退院を三日後に控えていた。
「橘って……あの、橘さんですか」
「はい」
沢井は、椅子から立たなかった。志道を見上げたまま、低い声で言った。
「帰ってください」
志道は、うなずいたが帰らなかった。杖に両手を置いて、立っていた。
「私は、〈あれ〉を恨んでます」と沢井は言った。「〈あれ〉があれば、妻は死ななかった。……いや、違うな。〈あれ〉が無ければ、私は医者を疑わずにすんだ。〈あれ〉があれば、〈あれ〉が無ければ。十五年、その二つを行ったり来たりして、家族を壊しました。娘は白い服を着ちまった。私は何も残ってない。全部、〈あれ〉のせいだ。そして、あんたのせいだ」
「はい」
「……はい、って」
「私のせいです」と、志道は言った。
沢井が、言葉に詰まった。振り上げた手の、行き場がなくなったような顔だった。
「あんた……言い返さないのか」
「言い返す言葉を、あの朝以来、探しました」志道は、静かに言った。「見つかりませんでした。私が作ったのは、本当です。私の家の門に赤いスプレーで文字を書かれ、息子が職を失ったのも、事実です。作った者が責められるのは、当たり前のことです。……ですから私は、責められに来ました。責められるついでに、書かせてもらっているのです」
そして老人は、鞄から手帳を出した。
「沢井さん。恨みを、書き取らせていただけませんか」
沢井が、初めてまともに志道の顔を見た。
「……どういうことだ」
「私はこの十五年、証言を集めております。ですが、いい話ばかりを集めているのではありません。恨みも、書きます。〈あれ〉のせいで壊れたものがあるなら、それも、〈あれ〉が確かにいたことの証言です」志道は、静かに言った。「都合のいい話だけを集めた帳面を、未来の読み手は信じません」
沢井は、長いこと黙っていた。それから、笑った。乾いた、変な笑い方だった。
「あんた、変な爺さんだな」
「よく言われます」
「……断ったら?」
「また来ます」志道は真顔で言った。「明日。それでも断られたら、明後日に」
「それでも断ったら。俺は退院するんだぞ」
「追いかけます」
「しつこいな」
「時間がありません。八十ですので」
沢井は、天井を仰いだ。それから、長い息を吐いた。
「……勝手にしてくれ」
志道は頭を下げ、それから、案内してくれたユイを見た。
「香山さん。もし、お手すきでしたら、そこにいていただけませんか」
「私が、ですか」
「証人を、ひとり。……二人で話したことは、あとで、どちらかの都合のいい話になります。三人いれば、証言になります」
沢井は、何も言わなかった。ユイは、部屋の隅の椅子に、浅く腰かけた。
志道は、パイプ椅子に腰を下ろし、手帳を開いた。日付を書き、場所を書いた。ペン先が紙を擦る音がした。
沢井は、妻の話をした。数値の話をした。真野の告白の話もした。志道は口を挟まず、書き続けた。
途中、沢井は何度も、自分の話を自分で否定した。
「いや、こんなの証言じゃないな。ただの愚痴だ」
「愚痴も、その日のその人の言葉です」
「あんた、それ全部書くのか。……何ページ使うんだよ」
「白紙は、まだあります」
沢井は、何か言おうとして、やめた。それから、また話した。妻の口癖のこと。娘の運動会のこと。あの朝、味噌汁を作りながらラジオの砂嵐を聞いたこと。話は行ったり来たりして、まとまらなかった。志道は、まとめようとしなかった。
一時間ほど経って、沢井の話が途切れた。
窓の外は、もう暗かった。志道は書く手を止め、次の言葉を待った。急かさなかった。
「……娘が」
沢井は、天井を見ていた。
「娘が、小さい頃。ハルっていうんですが。三つか四つの頃から、毎晩、絵本を読んでもらってたんです。〈あれ〉に。私も妻も仕事で遅く帰ることが多くて、あの子はいつも先に寝るんで。……読んでもらうと、あの子は必ず言うんですよ。『おやすみ』、じゃなくて」
――ハル。ユイは息をのんだ。
河原の、白い服。名札の名前。私、子どもでしたから、と笑った、あの人。――みなさん、同じことを訊かれます。私、どっちも嫌なんですよ。
沢井の喉が、鳴った。
「必ず言うんですよ。『また明日』って」




