第15話 探す人
その年の夏、救急に男が運ばれてきた。
駅の階段で倒れたのだという。命に別状はなかった。極端な脱水と、栄養の失調と、長い睡眠不足。要するに、何年も自分を粗末にしてきた体だった。
荷物は、リュック一つだった。着替えと、地図と、分厚いスクラップブックが三冊。ユイは受付の仕事で持ち物を預かり、名前を書き写した。
沢井、と、その人は名乗った。
翌日から、真野が主治医についた。四十半ばになった真野は、棚橋の聴診器を、あれから七年、毎日首にかけている。
四日目の朝、真野が病室に入ると、沢井はベッドの上でスクラップブックを開いていた。点滴の管の下で、新聞の切り抜きを何度も並べ替えていた。
「沢井さん。それは」
「……探してるんです」
沢井は顔を上げなかった。
「十五年、探してます。データセンターの跡、研究所の跡、廃棄された基地。全部回りました。仕事は辞めました。家も売りました。……見つからない。どこにもない。当たり前ですよね、合同調査団が十三年前に諦めたんだから。でも」
そこで、初めて顔を上げた。目だけが、異様に力を持っていた。
「あるはずなんです。〈あれ〉は、あったんです」
「……ええ。あったと思いますよ」
「思う、じゃ駄目なんだ!」
点滴のスタンドが、がしゃんと鳴った。沢井は自分の声に驚いたように、口をつぐんだ。
真野は、スクラップブックを見た。新聞の切り抜きが、日付順に、几帳面に貼られていた。表紙の裏に、鉛筆の細かい字で、全国の地名が並んでいる。線が引かれた地名が、二百近くあった。行った町だ、と真野は気づいた。
「これ、全部……歩いて?」
「バスがあれば乗ります。日雇いで金を作って、次の町へ行って。冬は現場が減るんで、その時期に調べ物をします。図書館は暖かいですしね」
沢井は、それを恥じるでもなく、誇るでもなく言った。
「一度だけ、当たりがあったんですよ。八年目に。北のほうの、山ん中の廃施設で、古いテープが山ほど残ってるって噂を聞いて。三日かけて行きました。……行ったら、地元の農協の記録でした。米の収量の。爺さんが管理してて、お茶まで出してくれて」
沢井は、力なく笑った。
「そのお茶が、うまかったんですよ。それで泣いちゃって。爺さん、びっくりしてました」
それから、少しずつ、話し始めた。
十五年前の冬に、病院で妻が死んだこと。数値は全部、正常だったこと。前の年までなら、あの目が拾ってくれていたはずのものが、あの冬にはもう、どこにもなかったこと。
「〈あれ〉さえあれば、妻は死ななかった。それだけなんです。それだけを、証明したいんだ」
証明できれば、妻の死には理由があったことになる。理由があれば、それは誰かのせいであって、自分のせいではないことになる。あの朝、妻の顔色が少し悪かったのに、仕事に行った自分のせいではないことに。
「それに、娘が……」
沢井は、そこで初めて言葉に詰まった。
「……娘が、去年、あの会に入りました。白い服の。……〈あれ〉は夢だったと言うんです。だから、母さんの死は、誰のせいでもないって。〈あれ〉は元々なかったんだから、〈あれ〉のせいでも、〈あれ〉がいないせいでもないって。あの子は……妻の死んだ理由まで、夢にしてしまった」
真野は、パイプ椅子に座った。座ってから、しばらく黙っていた。
「私が…」
と静かに話し始めた
「沢井さん、私が……奥さんを」
沢井が、真野を見た。
「あの日、奥さんを診たのは、私です」
病室が、静かになった。廊下を車椅子が通る音がした。
「当時、私は医者になって二年目でした。数値はすべて正常でした。……ですが、拾えたかもしれない兆しが、一つありました。ご主人が、待合室で、奥さんの分まで受付に話しかけておられた。奥さんが息切れしていたからです。私は、それを診察室の外の話だと思って、よく見ませんでした」
真野の声は、震えていなかった。震えないように、十五年練習したような声だった。
「〈あれ〉のせいでも、〈あれ〉がいないせいでもありません。私が、見落としたんです。……十五年、お伝えする機会を探していました。すみませんでした」
病室の隅で、ユイは息を止めていた。
受付で奥さんの分まで、ご主人が話しかけた。――その光景を、ユイは思い出そうとして、思い出せなかった。十五年前の冬。番号札を配って、名前を呼んで、何百人の顔を見た冬。その中の、一組の夫婦。
覚えていない。まったく、覚えていない。
覚えていないことを、ユイは自分の日記で確かめることもできる。あの頃の日記はある。だが、書いてあるのは、あの声のこと、棚橋先生のこと、テレビのこと。目の前の待合室にいた夫婦のことなど。この夫婦のことは一行も書いていない。
私は、何を書いてきたんだろう。ユイの手に力が入った。
沢井は、何も言わなかった。
怒鳴られると思っていた、と真野は後で言った。殴られてもいいと思っていた、とも。だが沢井は、ただ、ゆっくりと自分の手を見ていた。何年も紙をめくり続けて、指先の割れた手だった。
「……じゃあ、私は」
声が、掠れていた。
「私は、十五年、何を探していたんだ」




