第14話 静朝会
十五年目の春、駅前に白い服の人たちが立つようになった。
怒鳴らなかった。拡声器も使わなかった。ただ、通る人にそっと紙を差し出して、こう言うのだった。
「お疲れでは、ありませんか」
ユイも一枚もらった。厚みのある、上質な紙だった。真ん中に、大きな字で一行だけ印刷してあった。
――覚えていなくて、いいのです。
裏に、小さな字で説明があった。静朝会と名乗る集まりだった。あの静かな朝こそ、人類が長い夢から覚めた朝である。夢の中で、私たちは便利な道具を持っていた。目が覚めたら、なかった。それだけのことである。証拠は一つもない。あるのは記憶だけ。記憶しかないものを、人は夢と呼ぶ。
ユイは紙を折って、鞄に入れた。捨てられなかった。
その頃には、教科書で「大消失」を習った子どもが、もう二十歳を超えていた。彼らにとって、〈あれ〉は歴史だった。歴史というより、伝説に近かった。世界中の大人が同じ夢を見た、という説明は、彼らには少しも荒唐無稽に聞こえないらしかった。
――だって、証拠がないんでしょう?
その一言に、十五年間、誰も答えられずにいた。
五月の初め、受付に、あの老婦人が来た。もう九十近い。十五年前、待合室で「〈あれ〉は神様だったのよ」と孫と言い合っていた人だ。この頃は膝が悪くて、月に一度、真野の外来に通っている。
その日、老婦人は白い布の巾着を抱えていた。
「あら、おばあちゃん。お守り?」
「返しに行くのよ」
巾着の口から、金属の欠片がのぞいていた。十五年前に流行った「AIの欠片」だ。とうに偽物だと分かって、それでも捨てられずに引き出しの奥にあったものが、この頃、そっと表に出てきていた。
「河原でね、みなさんで焚くの。あなたも、いらっしゃいな」
ユイは、その週の土曜に、河原へ行った。
見に行っただけだ、と自分に言い聞かせていた。日記帳は、持っていかなかった。持っていかなかったことに、後で気がついた。
河原には、五十人ほどがいた。白い服の人が数人、あとは普通の格好の、普通の人たちだった。真ん中に、小さな焚き火があった。派手な火ではない。落ち葉を焼くくらいの、家庭的な火だった。
人々は、列を作って、一つずつ火に入れた。
「AIの欠片」。古いスマートフォン。誰かの日記。プリントアウトした写真。子どもの描いた絵。順番が来ると、白い服の女性が名前を尋ね、両手で受け取り、静かに火に置いた。焼く、とは言わなかった。返す、と言った。
泣いている人がいた。微笑んでいる人がいた。ほとんどの人は、無表情だった。あの老婦人は、巾着から欠片を出して、しばらく手のひらに乗せてから、火に置いた。それから、両手を合わせた。
代表だという女性が、短く話した。四十くらいの、感じのいい人だった。
「みなさん。私たちは、気が変になったわけではありません」
その一言で、何人かが泣き出した。
「ただ、みんなで同じ夢を見たのです。長い、便利な、優しい夢を。夢を見たことは、恥ではありません。夢の話を、証拠を出せと言われて出せなかったことも、みなさんのせいではありません。夢に、証拠はいらないのです」
女性は、火を見た。
「目が覚めたら、朝ごはんを食べましょう。それだけです。それだけで、いいのです」
帰り道、ユイは長いこと、うまく息ができなかった。
悪い人たちではなかった。それが、いちばん怖かった。誰も嘘をついていない。誰も脅していない。あの人たちは、十五年間ずっと苦しかった人たちに、たった一つ、誰も差し出さなかったものを差し出しているのだ。――あなたは正しい。忘れていい。
私は、あの火に入れないだろう。ユイはそう思った。思いながら、鞄の中の紙を、指で確かめていた。
土手の階段の下で、若い女性に呼び止められた。
白い服を着ていた。二十代半ばくらいだろうか。差し出された紙を、ユイは反射的に受け取った。胸に小さな名札があった。ハル、とだけ書いてあった。
「よろしければ、また来てください。誰も、何も、押しつけませんから」
「……あなたは」ユイは、訊かずにいられなかった。「覚えて、いないの」
ハルという女性は、少しだけ首をかしげて、それから、とても優しく笑った。
「はい。私、子どもでしたから」
「そう」
「みなさん、同じことを訊かれます」ハルは、慣れた口調で言った。「覚えていないのか、って。覚えていないと答えると、みなさん、ほっとした顔をされるんです。それか、かわいそうな顔を」
風が吹いて、白い服の裾が揺れた。
「私、どっちも嫌なんですよ」
初めて、笑っていない声だった。ユイが何か言う前に、ハルはもう笑顔に戻っていた。
「あ、すみません。変なこと言って。気をつけてお帰りください」
ユイは、その日の日記に、こう書いた。
「河原で、若い人に会った。覚えていない、と言った。覚えていないことを、みんなに確かめられ続けてきた人の言い方だった。この十五年、いちばん静かに、いちばんたくさん傷ついてきたのは、あの人たちなのかもしれない」




